寛平御時きさいの宮の歌合のうた 藤原としゆきの朝臣
こひわひてうちぬるなかにゆきかよふゆめのたたちはうつつならなむ (558)
恋ひ侘びてうち寝る中に行き通ふ夢の直路は現ならなむ
「寛平御時の后の宮の歌合の歌 藤原敏行の朝臣
恋い悩み寝る中に通って行く夢の直路は現実であってほしい。」
「(現)ならなむ」の「なら」は、断定の助動詞「なり」の未然形。「なむ」は、願望の終助詞。
恋しくて悩み苦しみその果てに寝る、それで見る夢の中には、恋しい人の許へ真っ直ぐに行き来できる道がある。けれども、これは所詮夢でしかない。だから、これが現実であってほしいと願わずにはいられない。
夢では願望がそのまま実現することがある。どんなに恋い悩んでいても、夢の中では、何事にも邪魔されず恋しい人に逢える道があったりもする。これは、恋する者なら誰でもが経験する、言わば「あるある」であろう。作者は、歌合の歌としてそれを指摘した。
夢と現実の対照はよくあるけれど、この歌は「夢の直路」と、「夢」と「直路」を結びつけた。この結びつきによって、夢の中では、恋しい人の許へ容易に行けることを印象づけた。そして、そのことで、そうはならない現実への不満を訴えている。編集者は、この点を評価したのだろう。
コメント
現実で逢えないならば、せめて夢の中で。たとえ夢でも、直路を通って逢えるのだから、全く逢えないよりはマシ、、とはならないのですね。
夢の中での出来事が現実になってほしいと。。
そうですね。この歌だけだと、そう捉えられてしまいますね。夢で逢えるのだから、それで満足すればいいのに、欲深い人だなと。ところがそうは行かないことが次の歌でわかります。まりりんさんもきっとご存じの『百人一首』のあの歌によって。
真っ直ぐな道を通ってあなたに逢いに行ける、これが現実であればいいのに。藤原さんのおうちの方だから、心のままにとはいかない事情があるのでしょうね。真っ直ぐな道同様、恋心は相手に対してどこまでも真っ直ぐだからこそ、思い悩む度合いも強いのでしょう。
現実には、恋人に逢いに行くことさえできない事情が有ったようですね。その点、逢えるかどうかはともかくとして、夢ならば逢いに行くことはできました。それを踏まえての願いなのですね。