《特別な鶏》

題しらす 読人しらす

あふさかのゆふつけとりもわかことくひとやこひしきねのみなくらむ (536)

逢坂の木綿付け鳥も我がごとく人や恋しき音のみ鳴くらむ

「逢坂の関の鶏も私のように人が恋しいのか。だから、声を上げて泣いてばかりいるだろう。」

「木綿付け鳥」は、鶏に木綿を付けて、都に出入りする四つの関所で祓いをしたという故事による。「(人)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「恋しき」は、形容詞の連体形。ここで切れる。「(鳴く)らむ」は、現在推量の助動詞の終止形で現在の出来事の原因理由の推量を表す。
逢坂の関まで来ました。「逢」という名が付いているのに皮肉なことです。ますますあなたから離れてしまいます。ここでは、木綿を付けた鶏が頻りに鳴いています。人が恋しいのでしょうか。それはまるで今の私のようです。私も悲しくて声を上げて鳴いてばかりいます。
作者は「木綿付け鳥」に託して今の思いを伝えている。自然の事物は、人の気持ち次第でいかようにも思える。この歌では「逢坂の木綿付け鳥」の鳴き声を自分の気持ちのように感じた。この鳥は単なる鶏ではない。「逢坂の関」で「木綿」を付けて鳴く特別な鶏なのだ。だから、人の気持ちがわかるはずだと言うのである。
この歌は「逢坂の関」が出て来るのだから、離別歌に分類することもできる。しかし、前の歌の山との関連で関所を題材にした恋の歌として載せている。この歌は、読み手の視覚だけでなく聴覚にも訴えている。鶏のけたたましい鳴き声と作者の泣き声が重なって感じられる。編集者は、逢坂の関の木綿付け鳥という着眼点と共に、この点を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    木綿付け鶏が人恋しく鳴く声と、作者が恋人を思って泣く声のみが寂しく響き渡る。あなたに逢えると思って逢坂の関まで来たのに、思いは届かなかった。
    寂しさと切なさが伝わってきます。

    • 山川 信一 より:

      作者が逢坂の関まで来たのは、京都から出る何らかの事情が有ったからです。ここで恋人に逢えるとは初めから思っていません。しかし、逢えないのに、「逢坂」とは、なんと皮肉なことかと思っています。

  2. すいわ より:

    別れの場所だと言うのに「逢坂」なんて皮肉な名前。そして別れの場の守りに置かれる「木綿つけ鳥」。「結う・付ける」と結ぶイメージのある名だと言うのにその名の矛盾にお前も恋しい人を呼んで私のように泣いているのだろうか、、。同じ立場のものが共感することで少しは慰められることもありますね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、「逢坂の木綿付け鳥」には、もう一つ「結う・付ける」と結ぶイメージがありますね。「逢坂」と「木綿付け鳥」は、二重の皮肉になりますね。少しは慰められたのでしょうか?また、相手には思いが伝わったのでしょうか?

  3. まりりん より:

    「木綿付け鶏」は、「夕告げ鶏」の意味もありますか? 鶏は鳴いて夜明けを知らせると思いますが、夕方に鳴くと物悲しい感じがするので。見当違いかな。。?

    • 山川 信一 より:

      近世では、「夕告げ鶏」と捉えられていました。語源がわからなくなっていたのでしょう。そもそも、鶏は朝告げ鶏ですよね。夕を告げる必要はありません。でも、敢えて言うのなら、「夕方に鳴くと物悲しい感じがする」からかも知れませんね。

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