題しらす 読人しらす
しのふれはくるしきものをひとしれすおもふてふことたれにかたらむ (519)
忍ぶれば苦しきものを人知れず思ふてふ事誰に語らむ
「忍べば苦しいのだから、人知れず思うということを誰に語ろうか。」
「(忍ぶれ)ば」は、接続助詞で条件を表す。「ものを」は、接続助詞で原因理由を表す。「(人知れ)ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「てふ」は、「という」の意。「(語ら)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。
恋をしていることは、人に知られてはなりません。そのことはよくわかっています。だから、こうしてひたすら堪え忍んでいるのです。でも、それはそれで苦しくてなりません。だから、この、人知れず思う苦しさを誰かに語りたくてなりません。一体誰に語ったらいいのでしょうか。それは他ならぬあなた以外にいないではありませんか。どうか、逢ってください。
人知れず思うことが恋であるならば、人に話してしまえば恋が恋でなくなってしまう。でも、苦しくてならない。誰かに話してしまいそうである。しかし、それでは恋が終わってしまう。それでいいのかと相手に迫る。恋を終わらせないで、人知れず思う苦しさを語る相手がいるとすれば、一人しかいない。それはあなたなのだと迫る。秘めるという恋の条件を逆手にとって、逢おうとしている。「誰に語らむ」は素朴な疑問ではあるけれど、周到に企まれている。こんな口説き方もあるのだと思わせる。
命を題材にする重い歌に対して、告白を題材にする軽めの歌を続けた。これなら、相手も負担を感じないで済みそうだ。誠実で真剣な態度は悪くないけれど、重すぎて相手がそれを不快に感じては元も子もない。ただし、どんな歌がいいのかは、ケースバイケースである。編集者は、恋の歌をあらゆる面から収録しようとしている。
コメント
悩み事も、誰かに聞いてもらって気持ちがスッキリすること、ありますよね。心の内を誰にも打ち明ける事が出来ずにモヤモヤして過ごさなくてはならないのでは、作者はさぞや苦しいでしょうね。歌を贈られた側は、生き死にを言われても戸惑いますが、このように苦しみを告白されてもソワソワ心穏やかでいられなくなりますね。
恋はいつだって最初は片思いから始まります。この歌を贈られた相手は、忍ぶつらさは分かち合うことができるのだと思って逢ってくれるかも知れませんね。両思いにあと一歩。
517番の歌から「命懸けの恋」が示され、517番は若さゆえの一途さ、518番は手練れの大人の駆け引き、そして519番。いずれもよみ人しらず、きっと編集者が意図的に、男性目線で詠まれたものでしょう。519番は何かを天秤に掛けることなく、相手に思い巡らせ矢印が自分に向いている事を気付かせる。洒脱ですね。続けて読む側からするとぎゅっと追い詰められてぱっと解放されたような感覚。歌も編集も実に良く考えられていますね。
「詠み人知らず」の歌は、古歌なのでしょう。『万葉集』以来、沢山の歌が作られたことでしょう。その古歌の中から編集者が編集意図に合わせて選んだ歌が並べられています。様々な仕掛を懲らします。それを読み解く面白さを提供しています。すいわさんのように読んでもらえれば、編集者冥利に尽きるでしょう。「(男性目線で)詠まれたもの」は、「編んたもの」でしょうか?中には、添削した歌も有るとは思いますが。
この「国語教室」に通い、和歌集を一冊の本として捉える事を初めて教えて頂きました。それぞれの歌の良さは勿論あるのでしょうけれど、作者も読まれた状況も違うそれぞれの歌を吟味し分類し、どう配置するかで一つの作品として仕上げる。どれほどの心血を注いだ事かとその熱意に今更ながら驚嘆しております。現役で国語を学んでいる時は限られた時間の中、現代語に訳して「こういう意味」としてしかとらえていなかった古典、先生のおかげで時を隔てた人々の心に触れられているように思えます。心からお礼申し上げます。
身に余るお言葉をありがとうございます。私が目指しているのは、言葉を通したコミュニケーションの方法です。古典もその材料です。ただ、『古今和歌集』はその最良の教材です。『古今和歌集』という和歌集は、その他の和歌集とは違います。これは、紀貫之によるアンソロジーと言っていいでしょう。その意味で、全体も一つの作品なのです。貫之が伝えようとしたものをできるだけ隈なく受け取りましょう。