題しらす 読人しらす
ひとのみもならはしものをあはすしていさこころみむこひやしぬると (518)
人の身も慣らはしものを逢はずしていざ試みむ恋ひや死ぬると
「人の身も慣れるものだから、逢わないでさあ試みよう、恋い死にするのかと。」
「ものを」は、接続助詞で原因理由を表す。「(逢は)ずして」の「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「して」は、接続助詞で順接を表す。「(試み)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。以下は、倒置になっている。「(恋)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「死ぬる」は、ナ行変格活用の動詞「死ぬ」の連体形。
私は、あなたに逢えないので、つらくてなりません。このままでは、恋い死にしてしまいそうです。けれども、人は、心はもちろんのこと、身も習慣によってどうにでもなるものです。ですから、あなたに逢わないで、さあ試みましょう。恋い死にするのもかと。しかし、心はなんとかなっても、この身はあなたに逢えないつらさに慣れるなんてことは有り得ないように思われます。もしかすると、この恋のせいで本当に死んでしまうかもしれません。お願いですから、そうなる前に逢ってください。
作者は、次のように言う。人はどんなことでも慣れる。ならば、恋のつらさはどうだろう。人には、心と身とがある。心はどんなにつらくても際限なく相手を思い続けることができる。心は逢えないつらさに慣れることができるのだ。しかし、心を支える身はどうだろう。自信が持てない。けれど、死ぬかどうか試してみようと。つまり、たとえ心が耐えても身は耐えられないだろうと言うのである。こう言うことで、相手に生きるも死ぬもあなた次第なのだと、自分の生死を委ねている。
前の歌に続いて恋と死がテーマの歌である。この歌では、恋のつらさに慣れる度合いに於ける心と身の差を問題にしている。たとえ心は慣れても、身が慣れることはないと言う。つまり、恋に於ける身は、何にでも慣れる人間の性質の例外であると言うのだ。この歌では、この発見を一般論から始めて、恋に当てはまるかどうか試そうと展開している。編集者は、この発想の独自性と、歌の展開の巧みさを評価したのだろう。
コメント
前の歌もそうでしたが、恋と死は背中合わせ。死にそうな程の思いをぶつけられれば確かに重いですが、それ程のエネルギーを恋に注げられることを、羨ましくも思います。この時代と比較すると現代の恋愛は希薄でしょうね。今の人は現実主義かも知れません。だって、恋愛よりも目の前の現実を見据えないと生き抜いていけませんものね。
現代は愛が最大のタブーになってしまったとさえ言う人がいます。愛が人を傷つけることがあるからです。愛の中でも、恋愛は大きな存在です。この歌が言うように、恋愛は命に関わるほどに人を酷く傷つけます。だから、現代人は恋愛を避けているのかも知れません。その場合、目の前の現実は、恋愛から逃げるためのいい口実になります。
「所詮、人なんて状況に慣らされるものだから。恋に報われず死ぬというけれど、あなたに逢えずにいたら私はどうなるか、試してみよう、、」試すのはあなただけれど、それでもしも死んでしまったら、それは私のせい?逢わずに耐え切れたのなら、私は必要なかったという事になる、、。試すのはあなた、でも、試されているのは私。
まるで魔女狩りを見ているようです。
作者はよほど切羽詰まっているのでしょう。作者にここまで言わせる相手とはどんな人なのでしょう。作者は、開き直っているようにも、意地になっているようにも思えます。具体的にはどんな状況なのでしょうね。