題しらす 読人しらす
からころもひもゆふくれになるときはかへすかへすそひとはこひしき (515)
唐衣日も夕暮れになる時は返す返すぞ人は恋しき
「日も夕暮れになる時は返す返すも人は恋しいことだなあ。」
「唐衣」は、「日も夕」と同音の「紐結ふ」に掛かる枕詞。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「恋しき」は、形容詞「恋し」の連体形。
昼間も夕暮れになる頃は、誰しも物思いにそそられるものですが、中でも、ひとえに遠く離れているあなたは恋しく思われることです。
作者が「唐衣」という枕詞を使ったのは、「人」が女性であるためである。心理から言えば、「日も夕暮れ」から「紐結ふ」を連想し、続いて「唐衣」を着た「人」を連想したのだろう。歌は、その心理の流れを暗示している。さらに、思いがその紐を解くことへと動いていくことまでも。係助詞「ぞ」は「返す返す」という副詞を強調している。やや違和感のある表現である。滑らかに〈返す返すも人ぞ恋しき〉とは言っていない。これだと、単に事実を述べているに過ぎず、自分の特別な思いは言い表せない。そこで、作者はこれを自分の特別な思いに合わせて表現を変形した。つまり、「返す返す」を強調しつつ、その対象である「人」を取り立ることで、次のように言いたいのである。〈恋しいのは「返す返す」では言い尽くせないほどなのだ。そして、その対象は他ならぬあなたなのだ。〉と。編集者は、この表現の変形を高く評価している。
コメント
夕暮れ時って、何故か人恋しくなったり、もの悲しくなったりしますよね。
「日も夕」から「紐結う」を連想。歌に詠んだことで言外の物を連想させて、奥行きが出ますね。「返す返すぞ」の強調表現は、読み手にやや違和感を与えることでより印象深くする効果もあるでしょうか。
「唐衣」から「紐結ふ」という言外のものを連想させていますね。おっしゃるように歌に奥行きが出ました。
そうですね。読み手に違和感を感じさせることで自分の特別の思いを伝えているのでしょう。お決まりの表現では言えないのですと。
私も「かへすかへす“そ”」が“も”ではないのだなと思いました。なるほど「ぞ」になる事で「人」がより意識されるのですね。
夕暮れ時、逢瀬の時間が迫ると言うのに私は紐解くのでなく紐を結う。日が帰っていくのを見るにつけ、あなたの来ないことが寂しく、恋しさが募るばかり、と思い人の来ないのを嘆いている女性の詠んだ歌なのかと思って読んでしまいました。
夕暮れ時になって、紐を結うのは、逢えないからですね。逢えるなら、紐は解く時ですから。なるほど、女性の歌にも思えてきますね。こんな歌をもらったら、男は飛んで行くことでしょう。
513番の「あさなあさな」の歌と対にして読む事が出来るのでは、と。編集するのが貫之だと思うとつい深読みしてしまいます。
確かにそうですね。そう思って眺めてみると、513番から516番は、時間の流れで並んでいます。514番は「忘らるる時し無ければ」はいつもですから何となく「昼」を感じさせます。515番は「夕暮れ」です。そして、516番が「宵」から「夜」になります。周到に編集されていますね。気が抜けません。でも、楽しいですね。