《春が終わる侘しさ》

やよひのつこもりの日、あめのふりけるにふちの花ををりて人につかはしける なりひらの朝臣

ぬれつつそしひてをりつるとしのうちにはるはいくかもあらしとおもへは (133)

濡れつつぞ強ひて折りつる年の内に春は幾日もあらじと思へば

「三月の月末の日、雨が降った時に藤の花を折り取りその花に添えて人に贈った 業平の朝臣
あなたのために雨に濡れながら強いて折りました。一年の内に春はもう何日もあるまいと思うので。」

「濡れつつぞ」の「つつ」は、動作の継続を表す。「しきりに・・・して」「ずっと・・・して」の意。「ぞ」は係助詞で「つる」に掛かり、係り結びを表す。「つる」は、意志的完了の助動詞「つ」の連体形。敢えて折ったのである。ここで切れる。以下が倒置になっていて、折った理由を述べている。「あらじ」の「じ」は打消推量の助動詞。
三月の終わりの日に雨が降る。その中、人に贈るために雨に濡れながら藤の花を折る。作者業平は、なぜこんなことをしたのだろう。今日で春が終わってしまう。だから、「春は幾日もあらじ」というのはおかしい。けれど、これはせめてそう思いたいからだろう。藤の花を折り取って贈ったのは、春が終わるわびしさをその人と分かち合いたいからだろう。一人では耐えられないのだ。そんな誰もが共感できるだろう思いを詠んだのである。
では、その人とは誰なのか。仮名序に「そのこころあまりてことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし」とあるが、なるほど、言葉が足りない。この歌からはわからない。しかし、だからこそ、一体この人は誰なのかと読む者の想像力を刺激する。これが『伊勢物語』を書かせた理由の一つだろう。この歌は第八十段に載っている。『楽しんで読む古典』に次のようにある。
「恋の歌と読むことはできる。男が女に贈り物をする。大した経済力がないので、藤の花を贈る。あなたのために濡れながら折ったと言うことで誠意を見せる。『私にとって春はいくらも残っていません。最後の恋をしてくれませんか。』といったところか。しかし、これでは『おとろえたる家』『藤の花』の必然性が今一つ感じられない。
『おとろえたる家』とは、在原家であろう。ならば、藤の花は、藤原家を言うのだろう。藤を植え、雨に濡れながら献上するのは、その威光に従うということか。ならば、春は、男の残り少ない人生を暗示しているのだろう。『私も年を取りました。これからどのくらいお仕えすることができるかわかりません。元気な間は、あなたに従います。』ということか。第七十九段の噂を何とかしてもらおうとしているのかもしれない。」

コメント

  1. すいわ より:

    この歌、知っていると思ったら、伊勢物語に確かにありました。贈る対象が変わるだけで、同じ歌なのに全く趣の変わる事に驚きました。愛する人に贈ったのなら、「一年のうち貴重な春の日はいくらもない。もう今日は弥生も晦日、雨に濡れながらでも君の為にこの藤を手折りました。(この花の落ちるまでまだ数日はあなたの元に春はあるでしょう、まだ恋のチャンスは残っていますよ)という所でしょうか。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、春を終わらせないようにしたのですね。あなただけ特別に春をとってきましたよと言われれば、女の心も動きますね。さすが業平です。

  2. らん より:

    藤は藤原家で忠誠を誓うかあ。。。。
    この歌、奥が深いですねー。
    藤の花を折って、「あなたのために春をとっておきましたよ」っ考え方が素敵です。
    私はこっちがいいです。

    • 山川 信一 より:

      春の終わりを悲しむ気持ちは誰にでもあります。その利用の仕方はいろいろとありそうです。まさに「人のこころを種として万の言の葉と」するとはこのことです。

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