題しらす 読人しらす
つれもなきひとをやねたくしらつゆのおくとはなけきぬとはしのはむ (486)
つれもなき人をや妬く白露のおくとは嘆き寝とは忍ばむ
「無情な人を妬ましく、起きては嘆き寝ては忍ぶのだろうか。」
「つれもなき」は、「つれなき」の歌語。「人をや」の「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「忍ばむ」に係る。「白露の」は、「おく」の枕詞。「おく」は、「置く」と「起く」の掛詞。「(忍ば)む」は推量の助動詞「む」の連体形。
無情なあなたを何ともいまいましく思います。私は、白露が置く夜に眠れずに起きては嘆き、寝ては逢えないつらさに耐えるのでしょうか。
作者は、男にも女にもとれる。ただし、「ねたし」は、女性の気持ちを言うことが多い。ならば、この歌は、一度逢った男がその後訪ねてこないことを嘆く女の思いということになる。恋は、全く逢えないよりも一度逢ってから逢えない方がいっそうつらい。逢うことは、恋のゴールではなく、スタートなのだ。逢えない者にとって、夜はつらい時間帯である。それも、待っているだけの女なら尚更である。しかも、一度逢った男が訪ねてこないのは、自分に魅力が無い証しで、それを思い知らされることになる。しかし、女はその現実には耐えられない。そこで、思いを相手の男のつれなさを妬ましく思うことに転じる。したがって、恋とは「ねたし」という感情が本当にわかることでもあるのだ。
コメント
この女性は、一度逢って気に入ってもらえなかったのですね。確かに女性は一度逢うと相手への思いは強くなりがちです。愛情と憎しみは表裏一体。思いが強い程、妬みも深くなる。
この人は、きっと二度と来ないでしょう。去っていく人を思い続けていないで、さっさと他のもっと素敵な人を見つけなさい、と、作者の女性にエールを送りたいです。
確かに合理的にはそうした方がいいでしょう。けれども、そうも行かないのが恋する心です。頭ではわかっていても、心が言うことを聞いてくれません。この「ねたく」は相手の男に向けられたものでもあり、どうにもならず「おくとはなけきぬとはしのはむ」自分にも向けられています。「寝ても覚めてもあの人のことを思ってしまうなんて忌々しい私の心なの!」と。
そうですね、確かに頭と心は別々に働きますね。殊に恋をしている時は、なかなか冷静ではいられないものですよね。
「おくとはなけきぬとはしのはむ」は、相手と自分の双方に向けられた言葉だったのですね。
と言うよりは、「相手と自分に向けられたのは「ねたく」の方です。逢いに来ない相手も「ねたく」、そんな相手なのに「おくとはなけきぬとはしのはむ」自分も「ねたく」なのです。
つれもなき「人」、歌を詠んだ女にとって「君」と詠めるほどの仲ではない事が分かりきってしまっている。どう見ても一方通行、相手はもう自分に興味がないであろうに、自分には「妬ましい」という思いが心に棲みつくほどに朝な夕な、囚われてしまっている。自力で抜け出すには時間が掛かりそうですね。まりりんさんのような心強い友達がいたらいいのに。枕詞の白露は女の涙のようにも思えます。
白露が女の涙を暗示することに同感します。枕詞にせよ、序詞にせよ、内容に無関係なものはありません。
自分のどうにもならない心が癪に障るのも恋の一面なのです。この歌は、その普遍性を読んでいます。こんな時は、誰かのサポートが必要ですね。