題しらす 読人しらす
かたいとをこなたかなたによりかけてあはすはなにをたまのをにせむ (483)
片糸を此方彼方に縒り掛けてあはずは何を玉の緒にせむ
「片糸をこちらとあちらに縒り掛けて合わさないで、何を玉の緒にしようか。」
「片糸を此方彼方に縒り掛けて」は、「あはずは」の序詞。「あはずは」の「あは」は、「合は」と「逢は」の掛詞。「ず」は、打消の助動詞「ず」の未然形。「は」は、係助詞で条件を表す。「玉の緒」は、〈命〉の意味も表す。「せむ」の「せ」は、サ変動詞「す」の未然形。「む」は、意志の助動詞「む」の連体形。
片糸(縒り合わせていない糸)をこちらとあちらに縒り掛けて合わさなければ、何を以て真珠を貫く紐にしましょうか。逢うとは、片糸を縒り掛けることです。あなたが逢ってくれないなら、私は何を玉の緒(=命)としましょうか。私はあなたに逢うことで、それを支えとして生きていられるのです。逢えなかったら、この命は絶えてしまいます。しかし、それはあなたも同じであるはず。あなたと私は一本の紐を縒り掛ける片糸同士です。二人が逢ってこそ、真珠を貫く紐になれます。つまり、二人の命を一層輝かせることができるのです。
片糸が縒り合わさって紐にならなければ、真珠を繋ぐことができない。真珠は数珠繋ぎにしてこそ真価を発揮する。それと同様に二人も結ばれてこそ人生は輝きが増すと言う。つまり、逢うことは、私だけでなくあなたも輝かすことになるのだと口説いているのである。中島みゆきの『糸』は、この歌にヒントを得て作ったのだろうか。そこでは、男女の出逢いを布を織りなす縦糸と横糸にたとえている。この歌に比べると大分地味に感じられる。貴族と庶民の恋の差を暗示するようだ。
コメント
だいぶ積極的になってきましたね。遠くから憧れているだけで満足なのではなく、相手に強く求めている。そして相思相愛であることも確信しているようです。すでに和歌や手紙のやり取りは何度かしているように思えます。
中島みゆきの『糸』は初めて聞いてみましたが、確かに状況が似ていますね。
「すでに和歌や手紙のやり取りは何度かしているように思えます。」に同感です。恋はこうして互いの心を確かめながら進めていくもののようです。今どの段階にあるかなと想像してみるのはいい読みです。
糸から真珠を通す紐を連想するのは、恋の相手への配慮でしょう。真珠は恋や相手の女性を暗示するからです。
それに対して「織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない/いつか誰かの傷をかばうかもしれない」と歌うのは、恋が愛に変わった頃の心境でしょうか。
片糸というところがポイントなのですね。どちらが欠けても目的を果たせない。私の思いは言わずもがな、貴女にも私が必要なはず、と。
真珠を糸に通すという表現、よく使われますね。宝飾品で身を飾るイメージがあまりないのですが、海に囲まれた国、人口の真珠を世界で初めて作るほどに真珠に対する思い入れは昔から殊の外強かったのでしょうか。鉱物には無いまろやかな輝き、小さな「月」を留めておくべく糸に通したのかしら、と想像しながらこの歌を読みました。
真珠は小さな「月」のイメージなのですね。わかります。そう言えば、昨日はスーパームーンでした。少し大きめの真珠が出ていました。当時の人も月も真珠も好むのは、二つが似ているからかも知れませんね。真珠のような恋を二人で貫いていこうと言うのですから、女心も動かされますね。