むさしのくにとしもつふさのくにとの中にあるすみた河のほとりにいたりてみやこのいとこひしうおほえけれは、しはし河のほとりにおりゐて、思ひやれはかきりなくとほくもきにけるかなと思ひわひてなかめをるに、わたしもりはや舟にのれ日くれぬといひけれは舟にのりてわたらむとするに、みな人ものわひしくて京におもふ人なくしもあらす、さるをりにしろきとりのはしとあしとあかき河のほとりにあそひけり、京には見えぬとりなりけれはみな人見しらす、わたしもりにこれはなにとりそととひけれは、これなむみやことりといひけるをききてよめる 在原業平朝臣
なにしおははいさこととはむみやことりわかおもふひとはありやなしやと (411)
名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと
「武蔵の国と下総の国との中にある隅田川の辺に到って都がとても恋しく思えたので、暫し川の辺りに馬を下りて座って、思いやると限りなくも遠くに来たなあと思い煩って物思いに耽っていると、川の渡守が早く船に乗れ、日が暮れてしまうと言ったので、船に乗って渡ろうとすると、誰しももの悲しくて京に恋しく思う人がいないわけでなく、そんな折、白い鳥の嘴と脚が明いのが川の辺りで遊んでいた。京には見ない鳥であったので、誰も見たことがない。渡守にこれは何鳥だと聞いた所、これこそが都鳥だ言ったのを聞いて詠んだ 在原業平
名として身に受けているならさあ聞こう。都鳥よ。私が恋しく思う人はいるのいないかと。」
「(名に)し」は、強意の副助詞。「(負は)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(言問は)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「都鳥」は、独立語で、呼び掛け。以下は倒置になっている。「(あり)や(なし)や」の「や」は、どちらも疑問の終助詞。
今の東京都と千葉の境を流れる隅田川で旅愁を感じる。夕暮れ時で船頭は、一行の思いへの配慮もなく乗船を促す。そんな折に見たことのない鳥を見る。船頭に名を問うと「都の人なのに知らないのか」と言わんばかりに「これが都鳥だ」と言う。
都鳥よ、もしお前の名がその身にふさわしいものであるのなら、きっと都のことは知っていることだろう。ならば、どれ聞いてみようではないか。私が恋しく思っているあの人は生きているのか、もう亡くなっているのかと。
詞書は『伊勢物語』では、前に続く部分である。旅は進み、東国にまで到る。この歌は、それに伴う旅愁を詠んでいる。都から遠く離れて都に残してきた妻のことを恋しく思う。時は夕暮れで、思いは一層募る。そんな折、見知らぬ鳥の名が都鳥だと教えられる。その名は、この地では都への唯一のよすがである。それに縋ろうとする。そこで、都鳥に都に残してきた妻の消息を問い掛ける。作者は、こうして旅の愁いを無理を承知の問い掛けで表してみせた。「都鳥」という名への拘りは、前の歌のような遊び心からではなく、やるせない旅の愁いから生まれている。旅の愁いの深まりが感じられる。
コメント
京と武蔵、現代では数時間もあれば行き来出来るけれど、月旅行に出掛けたような感覚でしょうか。馴染んだ世界から踏み出し、見るもの聞くもの、未体験のものとの遭遇。他を知ることで自分を改めて知る。思いがけず異郷で出会った京の欠片に心は一瞬にして引き戻される。帰る場所があればこそ、「旅」は味わい深いものになるのかもしれません。
日常から脱すればこそ旅になります。一方でだからこそ日常が愛しくなります。日常を愛しく思い、悲しむことも旅の目的の一つです。日常の価値を知るためにです。さぞ、妻を愛しく思ったことでしょうね。
これはどういった旅だったのでしょうか。業務上の出張でしょうか。京から武蔵、下総までは当時は何日かかったのか。ちょうどホームシックで、自分の家や家族が恋しくなったのかも。船頭さんもそれを察して、わざと 都鳥 と言ったでしょうか。伝書鳩のように、いちいち京の様子を知らせてくれたら良いですのにね。。
「業務上の出張」?とんでもない!これは前の歌の旅の続きです。三河から隅田川に到ったのです。この場面は『伊勢物語』で学びませんでしたか?感想が的外れになっています。
伊勢物語。。
昔おとこありけり で始まる恋愛物語。すみません、お恥ずかしながら読んだ記憶が無いのです。何処かで学びましたっけ?
叱られそうですが、勉強して出直します。
知らないことは恥ずかしいことではありません。知ろうとしないことが恥ずかしいことです。この「国語教室」の『伊勢物語』を読んでください。取り敢えず、第九段を。直ぐにでも学べます。
この一連の旅は、センチメンタルジャーニーなのですね。居場所を求めて東国まで来てしまった、と。ちなみに「都鳥」とは「ゆりかもめ」のことですか。湾岸エリアを通っている路線、今更ですが、納得のネーミングです。
そうですね、センチメンタルジャーニーです。感傷的になることを求めて旅に出たのです。人は時に感傷的になりたい生き物です。