山にのほりてかへりまうてきて、人人わかれけるついてによめる 幽仙法師
わかれをはやまのさくらにまかせてむとめむとめしははなのまにまに (393)
別れをば山の桜に任せてむ止めむ止めじは花のまにまに
「山に登ってここまで帰ってきて、人々が別れるついでに詠んだ 幽仙法師
別れを山の桜に任せてしまおう。止めよう止めまいは桜の心のままに。」
「(別れを)ば」は、係助詞「は」が濁ったもの。「(任せて)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「(止め)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(止め)じ」は、打消意志の助動詞「じ」の終止形。「止めむ止めじ」は、名詞として機能している。
比叡山に登って、山の桜の名所まで帰ってきて、一行がそこで別れる折に詠んだ。
このまま別れるかどうかは桜に任せてしまいましょう。我々を引き留めるか、引き留めないかは、桜の心次第にして。皆さん、この桜をどう思われますか。このまま別れるかどうかは、皆さんがこの桜をどう思うかに掛かっています。
作者は別れが名残惜しかったのだろう。人々ともう少し一緒にいたかった。そこで、それをそのまま言うのではなく、人々の風流心に訴え、別れを少しでも先送りしようとしている。ただし、それを言うのに、桜の意志によるものとしている。すなわち、人が桜を思うのではなく、桜が人の心を操るものとしている。ここにこの歌の工夫がある。
コメント
桜を擬人化して意志を持たせているところが面白いですね。行くも行かぬも桜の意向次第と。
せっかく山まで来たのだから、まだ帰りたくない、もう少し皆と桜を愛でていたい。でも帰らなくてはならない。それは私の意志ではない、桜が決めたのだから仕方なく帰るのだ。
桜に責任転嫁して自分を納得させているように思えます。
別れたくはないけれど、別れるとしたら、それは桜のせいだと言うのですね。確かに別れの言い訳になります。
山桜を楽しんで、まだその余韻に浸っていたかったのですね。その気持ちを出来れば誰かと共有したい。そのまま自分の言葉を伝えるのでなく、桜に託して誘ってみる。花盛りの桜、花時は短いのだから心ゆくまでご覧なさい、ときっと言う事でしょう。
これが花の終わりの頃なら、咲き続ける花は無い、宴も終わり。さぁ再会を期待してここでお別れしましょう、と言った感じになるのでしょうね。
「まだお別れしたくありません。まさに桜が満開です。どうです、この桜をもうしばらく眺めていませんか?お別れすることを桜のせいにしましょう。」と言った気持ちでしょう。