今はこれよりかへりねとさねかいひけるをりによみける 藤原かねもち
したはれてきにしこころのみにしあれはかへるさまにはみちもしられす (389)
慕はれて来にし心の身にしあれは帰るさまには道も知られず
「さあこれから帰ってくださいと實が言った折に詠んだ 藤原兼茂
慕われてやって来た心の身であるので、帰る際には道もわからない。」
「(慕は)れて」の「れ」は、自発の助動詞「る」の連用形。「(来)にし」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(身)にし」の「に」は、格助詞で対象を表す。「し」は、強意の副助詞。「(あれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(知ら)れず」の「れ」は、可能の助動詞「る」の未然形。「ず」は、打消の助動詞「ず」の終止形。
もうお見送りはここまでで結構です。ここからはどうぞお帰りくださいと實が言った時に詠んだ。
あなたのあとを追わずにいられずにここまでやって来たこの身であるので、帰る際には、心が君について行き抜け殻の身になってしまい、どう帰って行ったらいいのか道もわからないのです。
この歌は、實の前の歌に答えたものである。「いざ帰りなむ」を文字通りに受け取らないで、真意を察し「今はこれよりかへりね」と受け取っている。誇張表現によって、「お名残惜しゅうございます」という気持ちを伝えている。このやり取りからは、あまり深刻さは感じられない。言葉の遊戯の感がある。白女の歌を含めて、この三首の歌からは別れを楽しんでいる様が伺える。しかし、言葉にすると、そんな気になってくるから不思議である。平安貴族に立ちにとっては、離別も一つの行事であり、離別を行事として楽しんでいたのだろう。この歌は、そんな離別のバリエーションの一つを示している。
コメント
先にも書きましたが、見送りもお別れも旅の楽しみの一つなわけですね。でも(恐らく)帰って来て再会できる事がわかっているから、楽しめるのですよね? 本当に今生の別れならば、こうはいきませんよね。
それにしても、世界中何処にいてもビデオ通話が出来てしまう現代では、こういった楽しみ方の醍醐味は味わえないですね。
なるほどそうですね。便利さがかえって別れの醍醐味を奪うこともありますね。そう言えば「不便益」というものがありましたっけ。
心とは裏腹な歌の、本当の気持ちを汲み取って歌を返しているのですね。歌がコミュニケーションのツールとしてちゃんと機能している。さり気無く、帰れるようにとの心遣いの歌に、この身が帰ろうとしたところで、君から離れがたい心は共にあろうとするから、空っぽの身だけでは帰り道もわからないさ、と別れ難さを伝える。当時の旅程は想像以上に時間が掛かったでしょうから、見送る側も「見送り」という名の小旅行を楽しんでいたのかもしれませんね。
「『見送り』という名の小旅行を楽しんでいた」は、まさにその通りでしょう。行事というリクリエーションを生かして生きていたみたいです。これは生きる知恵なのでしょう。現代人も変わりません。