夏
内侍のかみの右大将ふちはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた そせい法し
めつらしきこゑならなくにほとときすここらのとしをあかすもあるかな (359)
珍しき声ならなくに郭公ここらの年を飽かずもあるかな
「夏
内侍の長である藤原満子が兄である藤原朝臣定国の四十賀をした時に、四季の絵が描いてある定国の後ろに置いてある屏風に書いた歌 素性法師
珍しい声ではないのに、郭公は、この多くの年に渡って飽きもせず鳴くことだなあ。」
「(なら)なくに」は、接続語で逆接を表す。「(ある)かな」は、詠嘆の終助詞。
郭公が橘の木で聞き慣れたいい声で鳴いております。郭公は、長年に渡って満足することなくどこまでも鳴くことでございますなあ。私は、お兄様の聞き慣れた、その郭公のような美声をいつまでも長くお聞きしたく願います。長生きしてくださいませ。
郭公が描かれた屏風絵を見て詠んでいる。郭公の声を兄の声と重ね、兄の声が美声であることを暗示している。そして、その美声をこの先も末永く聞き続けたいと言うことで、兄の長寿を願う心を表している。屏風の絵を生かし、見事に賀の歌に仕立てている。
コメント
慣れてしまうと当たり前の事と気に留めなくなってしまう事は多いけれど、どんなに馴染み深くなろうとも兄様のお声には耳を傾けずにはいられません(ちょっと煩いと思うことも?たまにあるけど。ふふ)。こんな風にいつも、いつまでも私にお声を掛けて下さいませね。
世話焼きの煩いお兄さんのいる幸せ。春の歌よりなお、兄妹の仲の良さを表現しているように思います。
妹の兄への思いは、きっとこんな感じなのでしょう。素性法師の人間観察力に脱帽です。
兄の(美)声をきく。当たり前の日常。その当たり前の日常がずっと続くことを祈っている。このような感性に心が暖かくなります。前の歌が現実と離れていることと対照的ですね。
屏風絵に描かれたホトトギスは、姿も美しいことでしょう。
郭公の声のように、待ちわびてやっと変わらないその美声を聞けたという思いも込められているのでしょう。この歌では、姿ではなく声に焦点を当てたところにオリジナリティがありますね。