しがの山越えにてよめる 紀あきみね
しらゆきのところもわかすふりしけはいはほにもさくはなとこそみれ (324)
白雪の所も分かず降り敷けば巌にも咲く花とこそ見れ
「滋賀の山越えで詠んだ 紀秋岑
白雪が場所も区別せず降りしきるので、大きな岩にも咲く花と見るけれど・・・」
「分か(ず)」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「(敷け)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(花と)こそ」は、係助詞で強調を表す。係り結びとして働き文末を已然形にし、以下に逆接で繋げる。「見れ」は、上一段活用の動詞「見る」の已然形。
雪が降りしきる中、滋賀の山越えをする。白い雪が一面を覆っている。山中には、聳え立つような大きな岩がある。その切り立った岩肌にさえ、雪は所々に張り付いている。その雪を白い花と見る。しかし、そう思えたのもひと時のことで、直ぐに幻のごとく消え去り、山越えの厳しさが続く。
滋賀の山越えでのひと時の幻である。切り立つ大岩は、垂直であるから雪が降り積もることはない。しかし、所々にでこぼこがあるので、そこに雪が張り付いている。黒っぽい岩肌に白さが際だって見える。作者はそれを岩に咲いた花だと見た。そう見ずにはいられないほど、滋賀の山越えが厳しいからだ。そう見ることで我が身を励ましているのだろう。これも雪に関わる心理の有様の一つである。
コメント
これも前の歌と同様に、冬とはそういうもので、寒い中にも美しいもの楽しいものを見つけて前向きに過ごしなさい、ということでしょうか。雪の白い花が幻のごとく消えてしまうのは、滋賀の山越えの厳しさに加えて冬の寒さと寂しさで現実に引き戻されてしまうからなのでしょうね。
一面の雪景色はとても美しいけれど、私はやはり家(建物)の中から眺めるのが一番好きです。邪道ですが。。
いえいえ、これは滋賀の山越えの実感でしょう。こんな風に感じるものだと言うのです。
雪が美しいのは、自分に害がない場合だけですね。当然です。
春道列樹の歌でも滋賀の山越えの困難さ、歌われていましたね。
辛い辛い山越え、ただ山を越えるのでも難儀するのに、雪の降り敷いた山道はそれすら見分けが付かず、踏み外しそうだ。ふと目をやると、いつもならゴツゴツとした無骨な岩肌が雪に覆われ、まるで花を咲かせているようだ。ほんの一瞬、心を和ませてくれるが、いやいや、その美しさに手を伸ばそうものなら、道を外れて真っ逆さま、、。どうせ越えるのなら秋のお山の方が良かったですか、秋岑さん?
山越えをしなければならない理由があったのでしょう。それにしてもこれほどとはという後悔もあるでしょう。心の動きが感じられる歌ですね。