題しらす 読人しらす
わかやとはゆきふりしきてみちもなしふみわけてとふひとしなけれは(322)
我が宿は雪降り敷きて道も無し踏み分けて訪ふ人し無ければ
「私の家は雪が降り敷いて道も無い。雪を踏み分けて訪れる人が無いので。」
「(道)も」は、係助詞で、それが付くものが類似の事態の一つであることを提示している。「無し」は、形容詞の終止形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「(訪ふ人)し」は、強意の副助詞。「(無けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。
雪が辺り一面に降っている。庭の植え込みも置き石もすべての物が雪に埋め尽くされていく。とうとう我が家への道までも降り積もる雪で見えなくなってしまった。それでも、雪を踏み分ける人さえいれば、道までは無くならない。道が無くなってしまったのは、この雪を踏み分けて訪れる人がいないからなのだ。
雪に降り籠められることによって知る孤独感を詠む。冬であるから、雪が降るのは仕方がない。問題は、雪が道を隠してしまう事態だ。しかし、それでも雪を踏み分ける人がいさえすれば道はできるはずだ。なのに、自分にはそこまでしてくれる友がいない。逆に、自分がそこまでして訪ねて行きたいと思うほどの友もいない。「訪ふ」には、〈友が作者を訪ふ〉のと〈作者が友を訪ふ〉とが掛かっている。雪は、作者にそんな自分の友人関係を自覚させ、孤独感を募らせている。
コメント
どこにも出かけず、訪ねて来る人もいない。まるで今で言う「ひきこもり」ですね。あるいは、単に雪で足元が悪いから余程の用事でもなければ外に出たくないだけなのか。。歌を詠むくらいだから社交性は失っていないはずで、鬱でないと良いのですが。
しんしんと降る雪と静寂が、一層孤独感を募らせますね。
雪に閉じ込められた冬は、いやが上にも自分に向かうことになります。普段気づかなかった自分に出会います。それが孤独であることもありますね。冬とはそんな季節です。
「あきはきぬもみちはやとにふりしきぬみちふみわけてとふひとはなし (287)」似ているようですが、秋はまだ通る道は見分けられています。ふゆのこの歌、「道もなし」と言い切っている。道どころか、雪はこのまま降り続いて家までも覆い尽くしてしまうのではないか?この押し潰されそうな閉塞感、音さえも吸収してしまい、ひたすら孤独感に苛まれる。誰か訪ねる人があれば道標になろうものを、と思いつつ、自分も出ようとは思わないではないか、と思い至る。閉じ籠り、閉じ込められる冬。初雪の高揚感はもはや雪の下に隠れてしまっているようです。
「道もなし」が暗示しているのは、物理的なものだけでなく、手紙などを通した心のやり取りも含むのかも知れません。そんな自分に気付かされてしまう。それが冬なのです。