おなしつこもりの日よめる みつね
みちしらはたつねもゆかむもみちはをぬさとたむけてあきはいにけり(313)
道知らば訪ねも行かむ紅葉葉を幣と手向けて秋は往にけり
「同じ月末の日詠んだ 躬恒
道をもし知るなら、訪ねても行きましょう。紅葉葉を幣のように手向けて、秋は行ってしまうのだなあ。」
「道知らば」の「ば」は、接続助詞で仮定条件を表す。「訪ねも」の「も」は、係助詞で強調を表す。「行かむ」の「む」は、助動詞で意志を表す。ここで切れる。「幣と」の「と」は、格助詞でたとえを表す。「往にけり」の「往に」は、ナ変動詞「往ぬ」の連用形。「けり」は、助動詞で詠嘆を表す。
同じ九月の月末、すなわち、秋の終わりの日に詠んだ。もし秋が帰っていく道を知っているなら、どんなことをしても訪ねて行こう。しかし、知らないので、それはできない。紅葉が散るのは秋を見送る幣だったのだ。こうして、秋は行ってしまうのだなあ。
秋を擬人化することで、秋という季節への思い入れの深さを表している。秋がどこかへ帰って行くなら、そこを訪ねて行きたいと言うことで、秋が終わって欲しくない、いつまでも秋のままでいて欲しいという願いを表している。一方、紅葉が散るのを秋を見送る幣だ思うことで納得し、何とか未練を断ち切ろうとしている。
311の貫之の歌に「湊や秋のとまりなるらむ」とあるが、秋が帰っていく場所を知りたい、できることなら訪ねて行きたいという点で通じるものがある。
コメント
秋の擬人化といえば、(300)の神奈備のー もそうでしたね。その時も思いましたが、擬人化することで歌が躍動的になって作者の思いがよりいっそう強く伝わってきますね。これで秋は本当に終わりで明日からは冬、寂しさと未練と諦めの気持ちが混在しているように感じます。
(311) の歌もこれも、「帰って行く場所が分ければ訪ねたい」という気持ちは自分の元から去っていく恋人を追いかけて行くような、未練がいっぱいの感情に近いでしょうか。
擬人化もそうですが、ここでは「秋は」と「は」で主題にしています。秋が中心になります。その結果、躍動感が生まれることもありますね。
「寂しさと未練と諦めの気持ちが混在」、その通りです。自分の下から去って行く恋人への思いと重なるところもありますね。
美しい季節を見送る。どうにも手放し難い。秋の行き着く先がわかるのなら、何処まででも訪ねて行きたいのに。彩の紅葉を見飽きることなく愛でて来たけれど、そうか、それは我々を楽しませる為でなく、見送りの幣を準備していたのだ。木から木の葉の落ちるのは、最初から「秋」に一番の美を手向ける為だったのだ。あぁ、今まさに秋は往く、秋がついえてしまうのだなぁ。
春、夏にも増して秋への思い、深いですね。
紅葉に対する発見でもあるのですね。そう思って秋が帰って行くのを受け入れようとしているのでしょう。わかるような気がしてきますね。
去りゆく秋への思いの強さは、次の季節が冬であることも関係がありそうです。春にも惜春の思いがありましたが、夏には生命が溢れていますからね。