《暮れゆく秋》

なか月のつこもりの日大井にてよめる つらゆき

ゆふつくよをくらのやまになくしかのこゑのうちにやあきはくるらむ(312)

夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声の内にや秋は暮るらむ

「九月の末日に大井で詠んだ  貫之
夕月が掛かる小倉山に鳴く鹿の声の中に秋は暮れているのだろうか。」

「夕月夜」は、「小暗」の意で「小倉」に掛かる枕詞。「声の内にや」の「や」は、係助詞で疑問を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「暮るらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞の連体形。
今日は九月の末日、秋の終わりの日である。小倉山に夕月が掛かり、ただでさえ暗い小倉山は一層暗く感じられる。その小倉山で鹿が鳴いている。何とも寂しげな声だ。秋が暮れるのを嘆いているのだろう。その中で秋は今まさに暮れているのだろうか。
「大井」は、京都の嵐山の麓を流れる大堰川に沿う地である。作者は、ここから小倉山を見上げている。小倉山は、嵐山に向かい、大堰川の対岸にある。すると、小倉山から鹿の声がいかにも寂しげに聞こえてくる。「長月の晦」「夕月」「大井」「小倉山」「鹿の声」と舞台は整った。「・・・の中に」の「・・・」に入るのは「鹿の声」だけではない。それらに包まれて今まさに秋が暮れようとしている。その現実をもう受け入れるしかないという作者の悟りにも似た思いが伝わってくる。

コメント

  1. すいわ より:

    都の西側、小倉山。暮れ方の仄暗い空に掛かる夕月を眺めている。あぁ、九月も晦日、いよいよ秋も終わってしまう。そんな思いに耽っていると、彼の山から鹿の鳴く声が響いてくる。お前も秋の行くのが寂しいのか。その嘆きの声の消えて行く間にも、我らの名残惜しい気持ちをよそに、釣瓶落としの秋は待つ事なく刻々と暮れて行く。か細く肌寒い鹿の音に包まれて。

    • 山川 信一 より:

      夕月、小倉山、大井川、鹿の声、見えるもの、聞こえるもの、触れるものの中で秋は暮れていくのですね。風景と叙情が溶け合って感じられます。

  2. まりりん より:

    旧暦の9月の終わりは、現在の10月下旬頃。それであれば、紅葉の真っ盛りやジビエ料理の楽しみもこれからでしょうに。だから、作者はまだ秋が暮れるのを寂しいとは思っていない。それなのに、鹿の鳴く声はあまりに切なそうで寂しそう。もしかしたら鹿にとっては紅葉やジビエは(共食い!?)関心がなく、だんだん寒くなったり日が短くなったりしていく事を感じて、その秋の暮れていく気配が寂しいのだろうか。そして作者は、秋には秋の美しさがあって楽しみがあるけれど、やはり寂寥を覚える季節であることを実感するのであった。。

    こんな感じでしょうか。(笑)

    • 山川 信一 より:

      この歌に詠まれている季節は、旧暦との対応がどうであれ、「現在の10月下旬頃」ではないでしょう。秋の終わりの終わり、沈む夕日の最後の一片のような一日です。
      見えるもの、聞こえるもの、触れるもののすべてが秋の終わりを感じさせます。作者は、自分は今まさに秋の終わりに立ち会っているのだという思いに浸っています。
      その寂しさを直接表現せず、「夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声」という情景に託して表しています。

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