《秋色に染まる水》

寛平御時ふるきうたたてまつれとおほせられけれは、たつた河もみちはなかるといふ歌をかきて、そのおなし心をよめりける おきかせ

みやまよりおちくるみつのいろみてそあきはかきりとおもひしりぬる(310)

み山より落ち来る水の色見てぞ秋は限りと思ひ知りぬる

「宇多天皇の御代、古い歌を差し上げろ仰せになったので、『竜田川紅葉葉流る』という歌を書いて、それと同じ思いを詠んだ  興風
深山から落ちてくる水の色を見て秋はお終いと思い知ったことだ。」

「色見てぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「思ひ知りぬる」の「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「自然にそうなってしまい、今もその状態にある。」という意。
深山から流れてくる川の水は、紅葉に埋め尽くされ真っ赤に染まっている。そこから想像するに、深山ではすっかり紅葉が散ってしまったに違いない。これだけの大量の紅葉葉が散ったのだから。もう秋が終わってしまったことを認めざるを得ないなあ。
「竜田川紅葉葉流るという歌」とは、284の「竜田川紅葉葉流る神なびの御室の山に時雨降るらし」である。目の前で竜田川に紅葉葉が流れているのを見て、御室の山に時雨が降ったことを知る。つまり、「その同じ心」とは、目に見える事象によって、その原因となる事象を推測するという心の働きである。この歌でも、眼前の紅葉葉で赤く染まった川を見て、奥山ではすっかり紅葉が散ってしまったことを推測している。そして、秋が終わったことを思い知るのである。紅葉で真っ赤に染まる川を「み山より落ち来る水の色」と言っている。真っ赤と直接表現しないで、その色を推測させている。これは、作者と同じ心の働きを読み手に経験させるためだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    「推測」ですか。現実に目に見えている事象から「同じ心」でいくつもの推測ができますね。私も「同じ心」で試みてみましたが、、今回は気の利いたものが思いつきません。。(苦笑)
    「深山より落ち来る水の色」、「唐紅」の水の色、(302)の「水の秋」の透明な水の色。川の水ひとつも色々な表現ができ、同じ物なのにそれぞれ印象が全く違いますね。この歌の場合、真っ赤とはっきり言わないことで、真っ赤がより強く印象付けられる気がします。

    • 山川 信一 より:

      表現は、コミュニケーションの手段ですから、表現者は受容者の心を置き去りにしてはいけません。つまり、表現に参加させるように仕向けた方がいい。その場合。言い尽くさないで、受容者の想像力を信頼した方がいい。その点から言えば、「深山より落ち来る水の色」は、優れた表現と言えそうですね。

  2. すいわ より:

    水の色を「赤」と言わないばかりか「川」の文字すら出て来ていないのに、紅葉で色付いた流れを目の前に感じられます。まさに「作者と同じ心の働きを読み手に経験させるため」。その事に気付かされて驚きました。美的感覚がこんなに時間を隔てても受け継がれ、確立しているのですね。

    • 山川 信一 より:

      和歌(短歌)の表現とは、まさに「作者と同じ心の働きを読み手に経験させるため」の工夫に尽きますね。『古今和歌集』では、感性ばかりではなく、理性にまで訴えています。心の働きから理性を排除しないところにむしろ自然さが感じられます。

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