《絵と歌の役割分担》

亭子院の御屏風のゑに、川わたらむとする人のもみちのちる木のもとにむまをひかへてたてるをよませたまひけれは、つかうまつりける みつね

たちとまりみてをわたらむもみちははあめとふるともみつはまさらし (305)

立ち止まり見てを渡らむ紅葉葉は雨と降るとも水は增さらじ

「(宇多上皇の御所である)亭子院の御屏風の絵に、河を渡ろうとする人が紅葉の散る木の下に馬を引き止めて立っているのを上皇が歌にお詠ませなさったので、お詠み申し上げた 躬恒
立ち止まり、紅葉の散るのを見て、それから渡ろう。紅葉葉はたとえ雨のように盛んに降ったところで水は增すことがないだろう。」

「見てを」の「を」は、詠嘆の間投助詞。「渡らむ」の「む」は、意志の助動詞の終止形。ここで切れる。「降るとも」の「とも」は、接続助詞で仮定条件を表す。「增さらじ」の「じ」は、打消推量の助動詞の終止形。
川を渡ろうとここまで来た。すると、今まさに紅葉が川に雨のように散っている。晩秋ならではの見事な光景だ。これを見逃す訳にはいかない。しばらくは、馬から下りずにこのまま見ていよう。どんなに散ったところで、紅葉は雨ではないので、水かさが増える心配はないのだから。そして、散りきったところで、水面に敷き詰めた紅葉を踏みしめながら渡ろうではないか。
この歌は293、294の歌と同様に屏風絵を題材にした歌である。この種の歌は絵とセットになっている。つまり、絵と歌とがそれぞれ補い合い一つの作品になっている。したがって、絵と歌とでは情報が被らない方がいい。この歌では絵が風景、歌が心情と役割を分担している。だから、たとえば、歌には馬に乗っているという情報が無い。こうして、絵と歌がセットになり、この人物の視線の高さと共に、ゆったりとした心情が伝わってくる。

コメント

  1. すいわ より:

    なるほど、屏風絵と歌に被りがない事で説明臭さがなくなりますね。屏風絵の中の人物に違和感なく自分を重ね合わせ、降り注ぐ紅葉をその身に受けているような気分になります。
    「雨と降るとも水は増さらじ」と詠む事で水を意識させ、川の流れを感じて屏風絵が動画のように生き生きと動き出すように思えます。

    • 山川 信一 より:

      屏風絵の歌では絵が詞書になります。その分、歌は自由になれます。これは、作歌にも応用できそうです。歌だけで全てを言うのは難しければ、絵や写真とセットで詠むことから始めてもいいでしょう。今では写真俳句という分野があります。これに倣ったものでしょう。
      「雨と降る」で既に絵が動き出していますね。そして、この人物は川に雨と降った紅葉を踏みながら、ジャブジャブと馬を進めて行くのでしょう。その様子までも想像されます。

  2. まりりん より:

    絵と歌をセットで読むことは、和歌ではしばしばなされることなのですね。お恥ずかしながら、知りませんでした。絵と歌で役割分担、というのが面白い発想だと思いました。

    降るように散る紅葉を雨に例えていて、真っ赤な雨に衣装が紅く染まりそう、、と言いたいところですが、ここでは水はないと言っているから衣装は染まらないか。立ち止まってゆっくりと心行くまで景色を楽しんで、つまり道草を食っているわけですね。ここでは時間の流れがゆっくりに感じます。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんへのコメントにも書きましたが、写真俳句というジャンルもあります。絵や写真と歌や俳句をセットで詠むのは、歌や俳句上達のよい方法です。
      言葉では何を言えばいいかを学びやすくなるからです。やってみてはいかがでしょう。
      確かに、この人物は道草を食っていますね。この歌はそのゆっくりした時間の流れを詠んだのでしょう。人にはこうした時間が必要です。私たちもたまには道草を食いましょうね。

タイトルとURLをコピーしました