みやつかへひさしうつかうまつらて山さとにこもり侍りけるによめる 藤原關雄
おくやまのいはかきもみちちりぬへしてるひのひかりみるときなくて (282)
奥山の岩垣紅葉散りぬべし照る日の光見る時なくて
「宮仕えを長い間し申し上げないで山里に籠もりました時に詠んだ 藤原關雄
奥山の岩垣の中の紅葉はきっと散ってしまうだろう。照る光を見る時がなくて。」
「散りぬべし」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「べし」は、推量の助動詞「べし」の終止形。ここで切れる。以下は倒置になっている。
宮仕えを長い間せず、岩が垣根のように取り囲む奥山に籠もっている。ここでも、季節は移ろい秋になり、木々は紅葉している。しかし、この紅葉は、太陽の光に照らされることなく、散ってしまうだろう。この紅葉は今の私だ。
奥山の岩に囲まれた中の紅葉を詠んでいる。太陽に照らされ輝くこともなく散っていく紅葉に侘しさを感じている。同時に、その紅葉が自分に思えてくる。自分は、奥山の岩に囲まれた山里に籠もっている。自分も、ここの紅葉が侘しく散るのと同様に、再び天皇にお目に掛かることなく、空しく死んでしまうに違いないと言うのである。
コメント
なんとも物寂しい歌。詠み手は閉じ込められているのではなく、自ら閉じ籠っているのですよね。「岩垣」が堅牢な印象を与えて、頑なさを感じさせます。隠者のような生活をしているのか?
紅葉は何処に置かれても同じように色付くけれど(私は何処にあろうと私のままであるけれど)儚く散っていく事になるのだろう、と。
「照る日の光見る時なくて」は一見、遇されることなく終わることを嘆いているかのようにも取れますが、詞書から察するに天皇(照る日)に対する心残り、お役に立つこともなく、お目もじ叶わず終わるであろう事への無念を、見られる事なく散る紅葉になぞらえて歌ったのですね。
複雑な思いが伺えますね。自分を紅葉にたとえているのですから、自己評価は高そうです。それなのに、天皇にはお目にかかれない。それなりの事情があったのでしょう。しかし、それへの無念はあっても、怨みは無さそうです。今の境遇と思いとを見事にたとえています。