題しらす よみ人しらす
あきはきのしたはいろつくいまよりやひとりあるひとのいねかてにする (220)
秋萩の下葉色づく今よりや独りある人の寝ねがてにする
「秋萩の下葉が色付く。今からは独り身の人を寝つきにくくするのだろうか。」
「色づく」で切れる。「今よりや」の「や」は、係助詞で疑問を表す。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「する」は、サ変動詞「す」の連体形。
秋萩の下葉が色づき、本格的な秋がやってきた。これからは、自分のように一緒に寝る相手のいない者は、秋の夜長を物思いで明かすのだろうか。
「秋萩の下葉色づく」で視覚的に秋の深まりを表す。萩は、気温の低い地面の方から紅葉し朽ちていく。その事実と実感にそった表現である。「独りある人の」は、作者自身を指している。「独りある身の」ではなく、わざと「独りある人の」字余りにして、自分を独身者の一人として表した。それは、同じ境遇にある者の共感を誘うためである。秋萩の紅葉によって、秋のしみじみとした情感が作者の身の上へと及ぶ。自分が独り身であることの寂しさが一段と迫ってくる。秋は何と言っても、独りで寝ることを寂しく感じさせる季節なのだ。
コメント
「ひとりあるひとの」が字余りになっている事でより「独り」が強調されていると思いました。
深まる秋の夜、横になって庭を眺めたのでしょうか、自然と目線が下がり萩の下葉の色付きに気付く。あぁ、秋が立ち上がって来ている。物思いの季節、床から空気の冷たさも伝わって、その肌寒さがいよいよ独り身の寂しさを思い知らせる。誰かを心に浮かべると、また物思いへと誘われて眠れない。夏の寝苦しさとは違い、秋の不眠はひとり静かに夜の底へ沈んで行くようです。
「ひと」という表現は、作者が自分を外側から見ていることを表していますね。作者は、自分を第三者の視点で眺めています。それは、秋を主役に据えて、自分の寂しさを秋の一風景に位置付けているからでしょう。〈秋対自分〉という構図ではなく、自分の寂しさも秋の一部として描いています。
なるほど、「ひと」として一歩置いているのですね。自らの姿まで客観視して一幅の絵のように秋を描き出しているのですね。
これも秋そのものを主役にする工夫の一つです。同時に「ひとりあるみの」とすることが可能なのにわざとしないことで、読み手に疑問を持たせる工夫にもなっています。「詠み人知らず」の歌も侮れません。