第二百六段  何が重要か

 徳大寺の右大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定おこなはれける程に、官人章兼(あきかね)が牛はなれて、庁のうちへ入りて、大理の座の浜床の上にのぼりて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師のもとへつかはすべきよし、各申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへかのぼらざらん。尩弱(おうじゃく)の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」といへり。

大理:検非違使庁の長官の唐名。
浜床:帳台の中の一段高くなった四角の台。畳を二畳敷いてある。
尩弱:威力、勢力が小さいこと。
微牛:痩せた牛。

「徳大寺の右大臣殿が検非違使の長官の時、中門で検非違使庁の会議をなさったその間に、官人の章兼の牛が車から離れて、役所の中に入って、長官の席座の浜床の上にのぼって、食べ物を反芻して寝ていた。重大な怪異であると言って、牛を陰陽師の元に遣わすのがよいということを、役人たちが口々に言いましたのを、父の太政大臣がお聞きになって、「牛に善悪のわきまえは無い。足があるのだから、どこへだってのぼらないことがあろうか。力のない小役人がたまたま出仕した時に、痩せ牛を取り上げられる理由は無い。」と言って、牛を持ち主に返して、寝ていた畳をお換えになってしまった。それで、少しも凶事は無かったということだ。『怪しいことを見て怪しまない時は、怪しいことはかえって破れる。』と昔から諺に言っている。」

小役人の牛が車から離れて、検非違使の長官の座席で寝てしまう。多くの者がこれを怪異と見て、大ごとにしようとした。太政大臣がそれをたしなめたという話。この話を通して、兼好が言いたいのは次のようなことだろう。
物事の実質を忘れ、事を荒立てるべきではない。物事の吉凶は、受け取り方によっていかようにもなる。不吉だと思えば不吉になるし、気にしなければどうということもない。なのに、人は往々にして、つまらないことに拘りがちである。この話の場合、もし事を荒立てれば、小役人が痩せ牛を没収されることになってしまう。その点こそ重要である。ならば、それにこそ目を向けるべきである。つまり、実質的な損失を考えるべきなのだ。大ごとにしてもいいことはない。
なるほど、もっともな考え方である。物事の軽重を見誤ってはならない。しかし、それは結構難しい。たとえば、現代人でも、不動産の事故物件を忌み嫌う傾向がある。縁起や迷信に囚われるからである。その気持ちはわからないでもないけれど、それが政治的、経済的に悪用されることがある。その危険性を忘れてはならない。

コメント

  1. すいわ より:

    二百五段は分かりにくかったですが、二百三段からここまで、「型」について語っているように思います。今回は「言い伝え」という曖昧な、でも、「不安」という要素のせいで不特定多数の人がそれを無意識に信じてしまう「型」。
    人は流されやすいし、信じたがりだし、目の前の事実が受け入れ難いものだったりすると、「見えなく」なる生き物。だから判断の基準として「型」は有効だけれど、その「型」も不確かな「ヒト」によって定められたもの。最終的には自分で考え、判断するしかない。その為には固定観念の枠を外して冷静に多角的に物事を捉える視点が必要。日々訓練が必要ですね。難しい。

    • 山川 信一 より:

      迷信や諺は、人間の経験が生み出した一つの型なのでしょう。ところが、その型が全く正反対のことをいうこともあります。たとえば、「急がば回れ」と「急いては事をし損じる」とか。人間の営みはそう簡単に割り切れないからです。数学で言うところのカオス理論が当てはまります。バタフライ効果によって、結果はいかようにも変わります。人生を世の中を型で割り切ることはできません。しかし、だからこそ型に頼りたくもなるのですね。

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