《秋の悲しさ》

これさたのみこの家の歌合のうた  よみ人しらす

おくやまにもみちふみわけなくしかのこゑきくときそあきはかなしき (215)

奥山に紅棄踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

「是貞親王の家の歌合わせの歌  読み人知らず
奥山に紅葉を踏み分け鳴く鹿の声を聞く時こそ本当に秋は悲しい。」

「ぞ」は、係助詞で強調。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「秋は」の「は」は、「秋」を限定している。「かなしき」は、形容詞「かなし」の連体形。
里近くから奥山に向かって、朝、紅葉を踏み分けながら帰っていく鹿。その声を、寝覚めの床で聞く時こそが、身に染みて秋はかなしいことだなあ。」
夜の間、鹿は餌を求めて里にやってくる。朝になると、奥山に帰っていく。その鳴き声が作者の耳になんとも悲しげに聞こえてくる。一面に降り敷いた紅葉を踏み分けながら帰る様子が目に浮かんでくる。恐らく、この紅葉は、この歌がこの位置に置かれているので、萩のものであろう。秋はそれでなくても、もの悲しい季節である。しかし、作者は、秋が本当に悲しいのは、この声を聞く時なのだと言うのである。秋の悲しさの発見である。
ちなみに、『百人一首』では、猿丸大夫の作になっている。花札の鹿と紅葉の札は、この歌を題材にしたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「萩」と思ったことがありませんでした。刷り込みとは恐ろしいもの、まさに花札のあの絵、鹿と楓の取り合わせと思っておりました。
    枯れた木々の葉を踏み締め山の奥へと分け入って行く鹿。届くのはその声だけなのに、乾き朽ち落ちた紅葉を踏むカサカサとした音と感触までが伝わって来て、肌寒い寂しさが押し寄せます。誰を呼んで鳴いて(泣いて)いるのか。秋は孤独の顔をしている。なんとも悲しいです。
    「よみ人しらす」の歌は「題しらす」が多いように思うのですが、詞書、歌合せであれば出席者は知れているでしょうに、「よみ人しらす」、名を記せない事情があったのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      萩の紅葉は、楓より時期的に早い。秋の巻のまだ上ですから、これは萩でしょう。その鮮やかな色彩が目に浮かびます。乾いた音も聞こえてきますね。それはまさに秋の肌触りでもあります。そして、哀愁を帯びた鹿の鳴き声。作者は、まだ覚めやらぬ寝床でそれを聞き、悲しい気持ちになります。これこそ秋なのだと思います。
      「題知らず」は、歌自体で完結していることを示しています。一方『古今和歌集』の詠み人知らずには、様々な理由がありそうです。たとえば、勅撰和歌集にふさわしくないと判断された場合もあるかも知れません。しかし、私は別の理由を考えています。それは、貫之が添削した歌という理由です。貫之は、「詠み人知らず」にして、手を加えて作り直したのではないでしょうか。そう思うと、「詠み人知らず」は、とても都合がいい隠れ蓑になります。

  2. らん より:

    この歌、大好きな歌でした。
    私、ちはやふるが大好きなのです。
    その中でこの歌が出てきた時、なんだかわからないけれど、すごく心に響きました。なんて寂しい歌なのだろうと。
    鹿が落ち葉を踏む音が聞こえます。
    空気も冷たくて肌寒くて。
    鹿は餌もだけれど恋人を探してるのかなと思いました。
    やはり秋は寂しい季節です。

    • 山川 信一 より:

      漫画の『ちはやふる』ですね。近頃の漫画は侮れません。古典の世界へいざなってくれますね。
      作者は、鹿の鳴き声を妻を求める声であると聞いたのでしょう。だから、「音」ではなく「声」と捉えたのです。自分も同じ境遇にあったから、心惹かれました。
      視覚・聴覚・触覚が刺激され、この歌から作者の世界が見えてきますね。

タイトルとURLをコピーしました