この法師のみにもあらず。世間の人、なべてこの事あり。若き程は、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をもつき、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心にはかけながら、世を長閑に思ひてうち怠りつつ、先づ、さしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、ことごと成す事なくして、身は老いぬ。終に物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく。
されば、一生のうち、むねとあらまほしからん事の中に、いづれかまさるとよく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事をはげむべし。一日の中、一時の中にも、あまたのことの来たらんなかに、少しも益のまさらん事を営みて、その外をばうち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心に執り持ちては、一事も成るべからず。
「この法師だけではない。世間の人はすべてこのことがある。若い頃は、何事につけても、立身出世し、大きな道をも成し遂げ、芸能も身につけ、学問をもしようと、遠い将来に渡って期待することなどを心にはかけながら、一生を長閑なものと思ってのんびりと過ごしては、まず差し迫っている目の前の事にだけ気を取られて月日を過ごすので、すべてのことを成す事なく、身は老いてしまう。ついに物の上手にもならず、思ったように立身出世もできず、後悔するけれども取り返せる年齢でないので、走って坂を下る輪のように衰えてゆく。
だから、一生のうち、主としてこうありたいと望むことの中で、どれが勝るかとよく思い比べて、第一の事を考え定めて、その外は断念して、一事を励まねばならない。一日の中、一時の中にも、沢山のことがやって来るにしても、その中で少しでも価値の勝っていることに力を注いで、その外はうっちゃって、大事を急ぐべきである。どちらも捨てまいと心に執着しては、一事も成就するはずがない。」
法師について述べた話を一般化している。若い頃は、大望を抱き、望むものをすべて手に入れようとする。しかし、目の前の雑事に囚われて、月日を過ごすことになる。時間がいくらでもあるように錯覚するからである。そして、その結果、結局何も身に付かない。だから、望みが沢山あっても、どれか一つに絞って専念すべきだと言うのである。
これは、特に自尊心の強い者には、ありがちな生き方である。いろんなことに手を出して、結局どれもこれもものにならない。たとえば、『山月記』の李徴がそれである。なるほど、結果すなわち他者からの評価を重んじれば、もっともな考えである。しかし、本人がその過程に満足できなければ、かえって不幸なのではないか。一事に大成するためにしたいことを我慢するよりも、望むものをすべて手に入れようとする過程に満足し、幸せを感じているならば、それも一つの生き方として、認めてもいいのではないか。自己満足で結構ではないか。人は、他者の評価を得るために生きている訳ではないのだから。
コメント
言っていることは至極まっとう。法師に限っての事ではない、と言いながら法師に向けての言葉だったのでしょう。ついでのように一般論としても語ったのでしょうけれど。
法師は法師という道が決まってそこを歩いて行くのだからそれに邁進するのはわかります。でも、まだ素地の固まらないうちは様々な経験をし、その中から自ら選んで行く過程も大切。絵描きがデッサンばかりしていたら、それは緻密に描き写す技術は上がるでしょうけれど、独自の作品を描けるかというと、どうでしょう。ただ上手いだけの作品は心に響くでしょうか?音楽を聴き、美しい景色を眺める、そんな何でもない本人の経験が作品を作ると思うのです。一生懸命になるのは良いけれど、余白も必要。外から見て初めてわかることもありますし。自分という作品をどう作るか。他人のレシピで作りたくはないです。
確かに、この話を聞かせる対象の第一は法師でしょう。堕落した法師の説得が目的でしょう。しかし、一般論としても語りたかったと思われます。話は更に続きますから。話している内に目的はずれていくものです。
いずれにせよ、我々は一応この話に納得してしまいます。それは、我々がその前提となる常識に囚われているからです。それは、何かを成し遂げることがよいことだという常識にです。ですから、この前提を変えれば、違う結論ができてきます。どんなにもっともだと思えることでも、「果たしてそうか?」と疑ってみることが大切です。その上で、何を選択するかを考えればいいでしょう。自分の人生なのですから。