《「日暮らし」ではなく「日暗し」

題しらす よみ人しらす

ひくらしのなきつるなへにひはくれぬとおもふはやまのかけにそありける (204)

蜩の鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける

「蜩が鳴き止むのと同時に日は暮れてしまったと思うのは、山の蔭であったのだなあ。」

「つる」は、意志的完了の助動詞「つ」の連体形。終わりを表す。「ぬ」は、自然的完了の助動詞「ぬ」の終止形。始まりを表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働いている。文末を連体形にする。「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
これまで鳴いていた蜩が鳴き止んだ。それと同時に急に暗くなり、日は暮れてしまった。と思ったら、それは錯覚で、自分が山の蔭にいるので暗いのだなあ。
この歌は、作者の意識の変化を表している。作者は山を歩いていたのだろう。すると、今まで鳴いていた蜩が急に鳴き止んだ。それと同時に辺りが暗くなる。そこで、なるほど「蜩は日を暮れさせるからだ」と一応納得する。しかし、いくら秋の日は釣瓶落としとは言え、まだそんな時間でないはずだと思い直す。そこで、その理由が自分が山の裏側に入ったからだと悟る。「蜩」による「日暮らし」ではなく、山の蔭による「日暗し」だったのだ。「山の蔭」には、「日暗し」が暗示されている。
秋とは言え、まだ日射しは強い。その明るさの中から急に暗がりに入る時の戸惑いを表している。急に映画館の中に入ると、辺りが真っ暗に感じられる、あの感覚である。これは、秋には、誰しも経験する戸惑いであろう。作者は、それを取り上げ、こう表現してみせたのである。四句五句の字余りがその感じを強めている。

コメント

  1. すいわ より:

    山の中とは思いませんでした。暗順応するまでの心に起こる戸惑い、この動けなさが暗さを強調しますね。山を歩いていたのなら尚一層その感覚は強く感じられた事でしょう。
    ひぐらしが鳴き止んで夕暮れの闇を連れてきた、と思ったら斜めの夕日が伸ばした影だったのだなぁ、(秋も深まってきた事だ)、、という感じなのかと思いました。字余り字余りが長く伸びる影の裾のようでもあります。

    • 山川 信一 より:

      山の中という限定は必ずしも必要なさそうです。作者のいる場所が山の裏であれば、こういう現象が起こるでしょう。「日暗し」を「日暮らし」と錯覚してしまう具体的な場面は、幾通りもありそうです。明るさと暗さの意外なほどの対照も秋という季節の特色です。続く字余りは、「長く伸びる影の裾」でもあり、一瞬思考回路が麻痺した感じでもありそうです。

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