かむなりのつほに人人あつまりて秋のよをしむ歌よみけるついてによめる みつね
かくはかりをしとおもふよをいたつらにねてあかすらむひとさへそうき (190)
雷の壺に人々集まりて秋の夜惜しむ歌詠みけるついでに詠める 躬恒
かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て(寝で)明かすらむ人さへぞ憂き
かむなりのつぼ:宮中の襲芳舎(すほうしや)の一つ。落雷したことがあって、雷鳴の際は、近衛の諸官がつめることになっていた。
「雷の壺に人々が集まって秋の夜を惜しむ歌を詠んだ機会に詠んだ 躬恒
これほどに惜しいと思う夜なのに無駄に寝ないで夜を明かしている人までもが疎ましいことだ。」
「ねてあかすらむ」の「らむ」は現在推量の助動詞の連体形。「今ごろ・・・だろう」。「さへ」は副助詞で添加を表す。「・・・までも」。「ぞ」係助詞で強調。係り結びとして働き、文末を「憂し」の連体形「憂き」にしている。
これほどに過ぎ去るのが惜しいと思う秋の夜である。だって、待ちに待ってようやく訪れた秋であるのだから。それなのに、この秋の夜を今ごろ寝て過ごす人がいるだろう。何と憎らしいことか。いやそれどころか、ただ無意味に起きているだけで、ここに集い歌も詠まずにいる人までもが疎ましいことだ。
和歌の表記は、清濁を書き分けない仮名のシステムで成されている。この歌は、その特性を生かしている。「ねて」には、「寝て」と「寝で」とが掛けてあり、それが「さへ」に生かされている。「さへ」は、「寝て」に「寝で」が添加されてることを表している。「寝ている人」などもっての外に憎らしい。それどころか、「歌を詠まずに起きている人」までもが憎らしいと言うのである。このことで、秋の夜がいかに素晴らしいかを示している。
読み手には、初め「いたつらにねてあかすらむ」は、「寝て明かす」としか読めない。しかし、「さへ」まで来ると、何に何が添加されているのだろうと疑問が生まれる。このままでは何に何が添加されたのがわからない。そこで、これは「寝で明かす」だと思い当たる。つまり、「さへ」まで来て「寝て明かす」に「寝で明かす」が添加されたことが分かる仕掛になっている。この歌は、こうした頭の働きを求める、極めて知的な表現によってできている。
もちろん和歌は、叙情を表す文芸である。たとえば、その表現方法の一つが写生である。つまり、感情をそのまま表すのではなく、その元になった事物を表すのである。しかし、その表現方法は様々あっていい。『古今和歌集』の歌は、知的表現によって叙情を表している。肉を切るには鋭い刃物が必要なように、同質のもので同質のものを表すことはできない。叙情も然り。異質の何かが必要なのである。それが知的表現である。
コメント
折角の秋の夜だというのに、この美しい夜を楽しまずに眠ってしまう人がいるなんて全く勿体無いことだなぁ
だと思いました。そして「さへ」?で引っかかり、、なるほど二重の意味を持たせてあったのですね。
巷ではこの美しい夜を楽しまず寝て過ごす人もいると思うと、なんとも疎ましい。いやいや、折角寝ないでこの秋の夜を過ごすというのに雷のせいでこんなところに詰めていなくてはならない事こそ疎ましい!(こんな事なら無為に秋の夜を眠って過ごす方が贅沢なくらいだ、歌でも詠まずにいられようか)、、、お勤めに感謝申し上げましょう、お疲れ様です、、
なるほど、かむなりの壺に役目で詰める人の思いを詠んだ歌に解したのですね。詞書きを見事に踏まえています。歌の世界の広がりを感じます。
「詞書き」が大切という事、この『国語教室』で先生から教えて頂きました。有難うございます。詞書きを意識する事で歌が全く違う景色に見えてくるなんて思ってもみませんでした。
秋の夜に、役目を果たさねばならない者の愚痴を模して詠んだようですね。秋の夜の素晴らしさを言うのに、こんな方法もあるのですね。