《哀しみを誘う紅葉》

題しらす よみ人しらす

ものことにあきそかなしきもみちつつうつろひゆくをかきりとおもへは (187)

もの毎に秋ぞ悲しきもみぢつつ移ろひ行くを限りと思へば

「もの毎に秋が悲しいことだ。木の葉が色を変わりながら散っていくのをこれで最後と思うので。」

「秋ぞ」の「ぞ」は係助詞で強調。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「悲しき」は形容詞「悲し」の連体形で、ここで切れる。「もみぢつつ」の「もみぢ」は、動詞「もみづ」の連用形。「つつ」は継続を表す接続助詞。「思へば」の「ば」は原因理由を表す。
秋は何に接しても悲しみがこみ上げてくる。何もかもが悲しみを誘う。それは、木の葉の様子を見るからだ。木の葉は色を変えながら次から次に、最後の一枚まで散ってゆく。もうこれが最後の到達点だと思わされる。時は際限なく進み、あらゆるものが二度と帰って来ないと思えてくる。
一二句で感情を述べ、以下にその理由を述べるという構成になっている。すなわち、先に秋は何に触れても悲しみ覚えるとし、後にその理由を具体的に明らかにしている。こうすることで、自分の個人的な感情が当然のものであると読み手に感じさせている。色付いては次から次に散っていく木の葉、これを見て物事の終わりを感じない者はいないだろうと説得するのである。
歌集の構成としては、紅葉を出すことで、季節がまた一歩進み、秋が深まったことを表している。ただしまだ実際の紅葉を見ている訳ではない。これは想像上の紅葉である。

コメント

  1. すいわ より:

    「もみつ」、もみじは「色付いていく」動詞が名詞となったのですか?驚きました。思い返してみると、短期間にその経過をありありと感じられるものって、そうありません。その様子を想像し、様々なものの移ろいにそれぞれの人が思いを重ねて自然と物思いに耽る。そんな季節の幕開け。「想像上の紅葉」というのがまた良いですね。目の前に無いからこそ想像の枠を限定されません。

    • 山川 信一 より:

      「もみぢ」は初めは「もみち」でした。動詞「もみつ」の連用形ですから。一般に動詞の連用形は名詞として働きます。こうして、連用形(名詞形)だけが残った動詞に「霧る」もあります。
      桜が散るのも物事の移ろいを感じさせます。しかし、秋ほどの悲しみは伴いませんね。まだ秋の初めなのに想像上の紅葉は、人を物思いに誘います。

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