第百六十八段  老人のたしなみ

 年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、「この人の後には、誰にか問はん」など言はるるは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。大方は、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも弁へ知らず」など言ひたるは、なほまことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したりがほに、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いと侘し。

「年老いた人がある道に於いてに優れた素養が有って、『この人が亡くなった後では、誰に尋ねようか。』などと言はれるのは、老いの味方であって、長く生きているのも無駄なことではない。そうではあるけれど、それも廃れた所が無いのは、この人は一生この事によって過ごしてしまったのだと、かえってつまらなく見える。『今は忘れてしまった。』と言っているのがいい。大体は、知っていてもむやみに言い散らすのはそれほどの素養ではないのだろうかと、思われ、自然に誤りもあるに違いない。『はっきりと理解していない。』などと言っているのは、やはり本当にその道の大家だと感じられるに違いない。まして、知らないことを得意顔で、年輩で反駁しようもない人が語り聞かすのを、『そうでもない。』と思いながら聞いているのは、大変つらいものだ。」

望ましい老人のあり方を言う。一つの道に優れており、人から一目置かれるのは、結構なことではある。しかし、それは老人への評価が甘いだけである。別の見方をすれば、その道以外にすることが無かったからであり、つまらない人生であったことの証だとも言える。だから、知っていても「もう忘れてしまった。」「よく理解していない。」と言うのがいい。かえって、大家だと感じてもらえる。まして、知らないことを得意げに語るべきではない。周りの者は、年長者なので反駁できず、嫌な思いをする。したがって、老人に於いても万事謙虚であることが一番である。
この段に限らず、兼好は、老人に対して手厳しい。よほど困った老人に嫌な思いをさせられたことが有ったのだろう。しかし、その経験を一般化するのはいかがなものか。なるほど、謙虚に生きること自体は悪いことではない。少なくとも、周りの人間を不快にさせない。しかし、人目を気にして、知っていることや理解していることまで隠すのはどうか。たとえば、『論語』に次のようにある。「言之に及びて言はざる。之を隠と謂う。」(言うべき時に隠して言わずに黙っている。これを隠と言う。人間の犯しがちな過ちである。)兼好の主張は、実利よりも奥ゆかしさという気分を優先しており、現実的でない。これでは、人間関係が有効に生かされない。そもそも、老人という線引きがどれほどの意味を持つのか、疑問である。

コメント

  1. すいわ より:

    毎度の事ながら既得権者、地位にしがみついて離さない者達の傲慢な振る舞いに業をにやして「いい加減、引っ込め!」という気持ちなのでしょう。
    謙虚と出し惜しみは違いますよね。一意専心する事がつまらない事とも思えません。兼好の言う「老害」は自分の得た知識を検証精錬していくこともせず、新しい発見を受け入れる事なくアップデートされない知識を実しやかにひけらかして悦に入っている人の事なのでしょう。
    年齢の問題ではなく、本物の探求者は常に疑問を持ち、解明すべく立ち止まらないので古びる事が無いです。与えられた知識を黙って受け取るだけ、試験で高い点数を取るのが学びだと思っている年若い「老人」も沢山います。思っている事を発言しないというのも、自分の内なる考えの放棄、自分の考えに責任を持てないからということもあるのでは。それが正しいか間違えているかが問題なのではなく、発言しないことで間違いがあった場合にそれを正す機会が失われる事が問題だと思います。年齢の問題ではないです。

    • 山川 信一 より:

      兼好がどんな老害を元にして言っているのかはわかりません。具体例を挙げないのは、こう言えばおわかりでしょと言うことなのでしょう。この時代もそれほど老害は一般化していたのでしょう。
      なるほど、「老」とは実年齢の問題ではなく、生きる姿勢の問題なのでしょう。ならば、何が問題なのかをこそ問うべきでしょう。簡単に言えば、自己をアップデートできない姿勢を「老」と呼んだらよさそうですね。

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