太衝の太の字、点うつ、うたずといふ事、陰陽の輩、相論の事ありけり。盛親入道申し侍りしは、「吉平が自筆の占文の裏に書かれたる御記、近衛の関白殿にあり。点うちたるを書きたり」と申しき。
太衝:九月をつかさどるとされる神。転じて、九月。
吉平:陰陽道の大家。安倍晴明の子。
占文:占いの結果を書き記し、朝廷に差し出した文章。
「太衝の太の字は、点を打つ、打たないということを、陰陽道に携わる人たちが議論し合ったことがあった。盛親入道が申し上げましたことには、『吉平の自筆の占文の裏に天皇がお書きになっている日記が近衛関白家にある。点を打っている字を書いている。』と申しました。」
この段も有職故実について述べている。ここでは、「太衝」の「太」の点の有無が問題になっている。なるほど、「太衝」は陰陽道では、神の名であるから、それほど重要だったのだろう。しかし、傍から見れば、些細なことへのつまらないこだわりに過ぎない。陰陽道の程度が知れる。ところが、兼好はそう考えなかったらしい。これまでの叙述内容との整合性を考えれば、皮肉で言っているとは思えない。こういう細部へのこだわりこそが重要だと考えているようだ。細部をいい加減に扱えば、根本までもが揺らいで来て、陰陽道への侮りに繋がると言いたいのだろう。「神は細部に宿る」ということか。些細なことにまでこだわる形式主義は、権威を持たせるためには、極めて有効である。したがって、あらゆる分野でそのための常套手段になっている。
コメント
「太」の字はもともと点の部分が「大」、大の中に大を書いていたと聞いたことがあります。要は一番大きいことを表したって事ですよね。意味合い的に神様の名だから一番大きい「太」なのでしょうね。でも、ここではその意味に言及するのでなく、あの偉い人がそう書くのだから「太」なのだ、と。
「些細なことにまでこだわる形式主義は、権威を持たせるためには、極めて有効」、些細な事で崩れる権威って一体何なのでしょう?本当の本物は些細な事では揺らがないのではないか、と思ってしまいます。「形式」、型の通りにしておけば安心、なのでしょうけれどその安心が何故安心なのかは考える必要があると思います。安心という手抜きを放置すると、いつの間にか「安心」から遠ざかっていることも。その方が恐ろしいです。
おっしゃるとおりです。せめて、語源から言って欲しかったですね。権威に縋るのはなんとも情けない。
ただし、権威は、これを作り上げる方だけでなく、示される方にも都合がいいのでしょう。持ちつ持たれつなのです。権威に合わせて生きるのは楽だし、「安心」できるからです。
その「安心」を支えているのは人の目です。つまり、何か言われないで済むことでしょう。「安心」にばかり気を遣っていると、自己の判断力を失います。すなわち、危険な状態になります。