秋たつ日、うへのをのこともかものかはらにかはせうえうしけるともにまかりてよめる
つらゆき)
かはかせのすすしくもあるかうちよするなみとともにやあきはたつらむ (170)
川風の涼しくもあるか打ち寄する浪と共にや秋は立つらむ
「立秋の日、殿上人たちが賀茂川の河原に川逍遙したお伴について行って詠んだ 貫之
川風が何とも涼しいことだなあ。打ち寄せる波と共に秋は立っているのだろうか。」
「川風の涼しくもあるか」で切れる。「涼しくもあるか」を字余りにして、感動の大きさを表している。「や」は係助詞で疑問。係り結びとして「らむ」に掛かる。「らむ」は現在推量の助動詞の連体形。
賀茂川に浪が立っている。今日は秋立つ日であった。秋はこの浪と一緒に立っているのだろうか。だから、川風がこんなにも涼しいのだろう。
貫之は川波が立つのを見て、秋が立つことに結びつけた。川風が涼しいのは、秋が川波と一緒に立ったからだと考え、その理由にしたのだ。浪は、白を連想させ、涼しさを感じさせる。もちろん、本当の因果関係は逆である。川風が川波を立てたのである。川波が立ったから川風が涼しくなった訳ではない。しかし、ここではそんな因果関係はどうでもいいのである。暦上の事実、川波という視覚によるもの、川風の涼しさという触角によるものを一つに結びつけ、殿上人を喜ばせることが主眼なのだ。彼らの喝采を浴びたことだろう。その様子まで浮かんでくる。ちなみに、「打ち寄する」から音まで想像され、聴覚にも訴える。
コメント
立秋、確かに暦の上では秋だけれど、邸に居ては風がそよとも吹かない。ならばと御殿を抜け出して涼をもとめて殿上人たちは河原へと繰り出したのでしょう。「かはかせのすすしくもあるか」の後に皆の「はぁ、、」というため息が漏れていそうです。期待を裏切らない涼しさがそこに。川の流れは白波立てて目にも涼しく、水音も爽やか。次から次へと打ち寄せる波の様子は秋がどんどんこちらへ近づいて来るようでもあり、、、とこれを歌に詠んでしまうのだから、さぞお褒めの言葉をあちこちから頂戴した事でしょうね。
貫之にして、この字余りはこのため息を表しているのでしょう。視覚、聴覚、触覚で捉えた秋の始まりですね。さすがです。