寛平御時きさいの宮の歌合のうた 大江千里
やとりせしはなたちはなもかれなくになとほとときすこゑたえぬらむ (155)
宿りせし花橘も枯れなくになど郭公声絶えぬらむ
「宇多天皇の御代、皇后温子様が主催された歌合わせの歌 大江千里
宿っていた花橘も枯れないのに、どうして郭公は声がしなくなっているのだろう。」
「宿りせし」の「し」は過去の経験を表す助動詞「き」の連体形。「絶えぬらむ」の「らむ」は現在推量の助動詞の連体形。この二つの助動詞によって、過去と現在を対照している。
郭公は花橘の木に宿っていた。その花橘の木はまだ枯れずにある。つまり、郭公の宿はある。しかし、郭公の声が聞こえない。そこで、作者は声がしなくなった理由を推量している。それは、声がしなくなった事実に納得が行かないからだ。また、まだ鳴いていて欲しいという思いの反面でもある。それを、花橘と声がしないことによる喪失感・寂しさ・物足りなさとの取り合わせで表している。この取り合わせによる対照は、次の効果をあげている。花橘が白と緑の色彩、甘酸っぱい香りとそこで鳴いていた郭公を連想させる。これは、視覚・味覚・嗅覚・聴覚に訴えている。その一方で、その喪失感・寂しさ・物足りなさを印象づけている。つまり、こうして過去と現在が見事に対照されているのである。
コメント
清々しい花橘のもとで鳴く郭公、全て揃って完璧だったはずなのに、、、。やって来た郭公がいつまでも居続ける事を願ってやまない心を橘の常緑が象徴しているよう。濃い緑だけが残されて爽やかな初夏は目をつむってその香りを堪能している間に郭公と共にあっという間に過ぎ去ってしまうのかもしれません。
清らかな初夏。花橘と郭公の最高の取り合わせ。それが崩れてしまった喪失感。その落差を見事に表現していますね。文法でも、イメージでも。
「やって来た郭公がいつまでも居続ける事を願ってやまない心を橘の常緑が象徴」はオリジナリティ溢れる鑑賞ですね。
花橘だけが取り残されてしまって。
喪失感にあふれていますね。
ずっと変わらずにいてほしかったのに。
私も寂しくなっちゃいました。
寂しくなると、「なんでなんで」と理由を知りたくなりますね。
らんさんも共感したのですね。