第百三十七段  死への自覚

 かの桟敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人みな失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴をあけたらんに、滴る事すくなしといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人、二人のみならんや。鳥辺野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさくもの、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかには思ひなんや。ままこだてといふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へあてて一つを取りぬれば、その他は遁れぬと見れど、又々数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世をそむける草の庵には、閑かに水石をもてあそびて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その死に臨める事、軍の陳に進めるにおなじ。

鳥辺野・舟岡:どちらも火葬場。
ままこだて:碁石を十五個ずつ適当に円形に並べる。特定の石から数えて十番目の石を次々に取り除いていく。最後の残った石の色を競う遊戯。黒白の一方を先妻の子、他方を後妻の子に見立てたところから名付けられた。

「あの桟敷の前を沢山行き交う人で、見知っている人が多くあることで次のことを知った、世の人数もそれほど多くないことを。この人々がみんな失せてしまった後、我が身が死ぬことになっていたとしても、ほどなく自分も死を待ち、死を迎えるに違いない。大きな器に水を入れて、細い穴を開けたとしたら、滴ることが少ないと言っても、怠る間なく洩れていくなら、そのうちに尽きてしまうに違いない。都の中に沢山いる人が死なない日はあるはずがない。一日に一人、二人だけであろうか、そんなことはない。鳥辺野・舟岡、その他の野山にも、葬送の数が沢山ある日はあるけれど、葬送が無い日は無い。だから、棺を売る者は、作って置いておく暇が無い。若さにもよらず、体の丈夫さにもよらず、思いがけないのは死の時期である。今日まで死を逃れてきたのは、ありがたい奇跡である。わずかな時間も世をのどかには思ってしまっていいだろうか、いいわけがない。継子立てというものを双六の石で作って、立て並べてているうちは、取られるのは、どの石ともわからないけれど、数え当てて一つを取ってしまうと、その他は逃れてしまったと見えるけれど、その上更に数えれば、あれこれと間引いて行くうちに、結局どの石も逃げられないのに死は似ている。武士が戦いに出る場合は、死に近いことを知って、家も忘れ、身も忘れる。俗世間から離れて暮らす草の庵では、心閑かに泉水や庭石をもてあそんで、死をよそ事として聞くと思っているのは、たいそう頼りない。閑かな山の奥は、無常の敵である死が競い来ないだろうか、いや来る。その、死に臨んでいることは、戦場に進み出ている場合と同じである。」

祭の賑わしさから対照的な死を連想する。兼好の物事を一方的に見ない思考法の表れである。そして、人々の死に対する自覚の無さを戒めている。死を無常の敵と心得て、戦場にある武士のように死を意識すべきであると言う。つまり、生の基本に死を据えて、それを元に生を考えろと言うのだ。ところが、実際は、多くの人は死が存在しないように思い込んで、その上で生を考えている。これでは正しく生きられない。前提が間違っているからである。死ほど確かなものは無いのだから、そこから出発しなければならない。
今ウクライナでロシアとの戦争が続いている。それについて、兼好なら次のように考えるだろう。もちろん、戦争を忌避する努力は間違っていない。しかし、多くの人が戦争を嫌だと思うのは死を思い出させるからでもある。これは死を意識の外に押し出してしまっている証拠でもある。ただ死を忘れようとするだけではいけない。死を意識ている分、ウクライナの人方が確かな生き方をしている。たとえばこんな風に。
なるほど、この考えは間違ってはいない。しかし、兼好はその先を言わない。自明だからだろうか。しかし、自明ではない。その先こそが肝心なのに。たとえば、だから、死を恐れ、来世を思い仏道修行に勤めろ言うなら、従えない。では、どう考えたらよいのか。
そもそも、死を思うことは愉快なことではない。死の恐怖に取り憑かれたり、虚無的になるのも望ましくない。しかし、死を思うことに留まれば、そうならざるを得ない。死を思うことは、それ自体を目的とするものではない。それはあくまで、よりよく生きるための手段であるはずだ。死を思うことによって、自らが本当にしたいこと、すべきことを見極めるのである。死はそれを見極めるための出発点だ。大抵の人は「こうだったらいいなあ。」程度の思いでぼんやりとした夢を見て、何となく時を過ごす。そうではなく、いつ死んでも悔いが残らないように本気でやりたいことをして生きるべきなのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    人生は長い。でも、ぼーっとしているほど暇でもない。命の砂時計は止まる事なく、必ずその最後の一粒が落ちる時が来る。みんな知ってはいるけれど分かっているわけではありません。死んだ事がないのだから。漠然とした必然だから受け止め方も様々なのでしょう。
    「死を思うことは、それ自体を目的とするものではない」、重要なのはそこなのでしょう。カウントダウンして腹を括ると言うのではなく、終わりがある事を念頭に「今」を丁寧に生きる。今どうありたいかの最善を尽くすよう心掛けてはいます。ひと日ひと日の充足が結果、満足のいく人生につながるように思えます。何気ない一日を大切に過ごす事なら誰でも一人で出来るはず。小さな砂時計の下の所にちゃんと山は出来るのです。

    • 山川 信一 より:

      「何気ない一日を大切に過ごす事なら誰でも一人で出来るはず。」深く共感します。そう生きていきたいですね。

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