第百三十七段    何を見るべきか

 さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。「見ごと、いとおそし。そのほどは桟敷不要なり」とて、奥なる屋にて酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」といふ時に、おのおの胆つぶるるやうに争ひ走りのぼりて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見もらさじとまぼりて、「とあり、かかり」と、ものごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「又渡らんまで」と言ひておりぬ。ただ、ものをのみ見んとするなりべし。都の人のゆゆしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後にさぶらふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
 何となく葵かけわたしてなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼、下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ、見るもつれづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、ほどなく稀に成りて、車どもの乱がはしさもすみぬれば、簾、畳も取りはらひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世のためしも思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

「そういう人が祭を見た様は、たいそう珍奇であった。『見るべき行列がひどく来るのが遅い。それまでは桟敷にいる必要がない。』と言って、奥の部屋で酒を飲み、物を食ひ、囲碁・双六などで遊んで、桟敷には人を置いているので、『行列が通ります。』と言う時に、めいめいが胆を潰したように桟敷に争い走り登って、まさに落ちそうになるまで簾を押し合いながら、一事も見もらすまいと見守って、『ああだ、こうだ。』と、見る物事に言って、通り過ぎてしまうと、「また通るまで。」と言って桟敷から下りてしまう。ただ、出し物をだけを見ようとするからに違いない。都の人で立派に見える人は、眠って、大して見ない。若く身分の低い者は、御用のために立ったり座ったりしており、人の後にお付きしている者は、体裁悪くも、のしかかったりせず、無理に見ようとする人もいない。
 何となく祭全体に葵を掛け渡して優雅である上に、夜が明け切らない頃、忍んで寄せて来る車などの心惹かれるのを、あの人か、かの人かなどと推し量っていると、牛飼や下男などの顔を見知っている者もいる。面白くも、きらびやかにも、さまざまに牛車が行き交うのを見るのも退屈しない。暮れる頃には、立て並べてあった車なども、立錐の余地もなく並び座っていた人も、どこかに行ってしまったのだろう、間もなくほんのわずかになって、車などの混雑も済んでしまうので、簾や畳も取り払い、見ている内に寂しげになっていくことこそ、世の慣らいも思い知られて、しみじみと感慨深いのだがなあ。このように大通りを見ているのこそ、祭を見ていることなのだがなあ。」

片田舎の人を批判し、あるべき祭の見方を示す。では、何を批判しているのか。
まずは、視覚だけを重視する態度を批判する。確かに、「百聞は一見如かず」という言葉があるように、見ることの優位性に揺るぎはない。しかも、見ることは喜びに直結している。それ自体が喜びになる。しかし、その一方で他の感覚の働きを鈍くする。見ただけである程度満たされてしまうからである。見れば十分という思いになる。見ることは、両刃の剣になる。ならば、敢えて見ないことも一つの方法である。
次に、部分に囚われて全体を捉えないことを批判する。片田舎の人は祭の行列だけを重視して、祭全体の有様を蔑ろにしている。価値のあることと無いことに分けている。予め、俗な決めつけをしているのだ。つまり、祭の本当の味わい方ができていない。始め終わりを通して、全体が祭なのだ。これは、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」に通じている。
以上の二つに共通することは、物事を既成の価値観や先入観に囚われて限定し、心を十分に働かせないことである。この態度は、祭の見方に限らない。生き方そのものに通じている。
兼好の主張は説得力がある。それは、片田舎の人の姿やあるべき祭の見方が極めて具体的に描かれているからだ。片田舎の人の姿など、目に見えるようである。今でも、多くの人はこうした見方をしている。一方、あるべき見方も、細やかに書かれていて、これが唯一の見方ではないにせよ、お手本として十分応用が利き参考になる。

コメント

  1. すいわ より:

    あぁ、なるほどと共感できます。それそのものを味わう、というよりも経験を持ち物として手に入れて所有欲を満たしているような感覚は現代でもある事。流行を否定はしないけれど、流行りだから見ておかないと、身につけないと、と横並びの安心感で自分なりの受け止めが無いままに流されてしまうのでは、自分の中に残る物が無いように思います。人間の本質というのは変わらないものなのですね。そこを切り取って的確に分析して見せてくる兼好、只者ではありませんね。

    • 山川 信一 より:

      流行への「横並びの安心感」で満足して、「自分なりの受け止めが無い」というご指摘に共感します。経験さえも所有物なのですね。これは今に始まったことではないところが怖い。精神の悪しき普遍性でしょうか。古典から学びたいものですね。

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