題しらす よみ人しらす
こゑはしてなみたはみえぬほとときすわかころもてのひつをからなむ (149)
声はして涙は見えぬ郭公我が衣手の漬つを借らなむ
「声はして涙は見えない郭公よ。私の袖が涙で濡れているのを借りてお前の涙として欲しいなあ。」
「声はして涙は見えぬ」の二つの「は」は、係助詞。「声」と「涙」を取り立て、対比している。「郭公」で切れる。郭公に呼びかけている。「衣手」は袖の歌語。「からなむ」の「なむ」は、動詞型活用語の未然形に付く終助詞。他に対して、・・・してほしい、・・・てもらいたいという願望を表す。
郭公は悲痛な声で鳴くだけで、涙は見せない。心が籠もっているとは思えない。作者はそれが不満なのである。これでは、作者の今の心にそぐわない。「我が衣手の漬つ」とあるように、作者は何らかの悲しみで泣いているからだ。そこで郭公に呼びかける。どうせ鳴くのなら、私の気持ちになって鳴いておくれ。涙ならこの袖にいっぱいあるから、それを借りて欲しいと。
郭公の声は、血を吐いて鳴くとさえ言われるほど高く鋭い。しかし、情感には乏しい。つまり、ドライで憐憫を誘わず、共感しにくいのだ。言わば、涙が足りないのだ。
作者は、その郭公の声の特徴・印象をこういった状況を設定することで描写している。描写と言えば、対象をあるがままに捉えることだ。しかし、描写の方法は、何も写生に限らない。写生という方法は万能ではないからだ。たとえば、言葉によって声を正確に写し取ることは不可能だ。だから、写生ではそれに伴う思いも表せない。そこで、作者は状況設定という描写の方法を生み出したのである。これなら、郭公の声もそれに伴う思いも表すことができるからである。
コメント
初夏を歌う郭公、夏を謳うには何が足りない?私の本気の悲しみはほら、袖をこんなに濡らすほど。お前の鳴きには涙が足りないのだ。私の袖の涙を貸してやろう、流す涙のつゆ(梅雨)を得て(経て)本当の夏が来るのだから。
鳴き声が印象的な郭公、なるほど声ばかりで鳴く(泣く)姿は見られません。音を視覚化する事によってより感覚に、心に訴えるものとなるのですね。
一般に人事や思いを自然物にたとえるのが普通です。しかし、この歌ではそれを反転しています。人事によって自然現象をたとえています。もちろんこれは一方通行ではなく、相互に行き来しています。