題しらす よみ人しらす
ほとときすなかなくさとのあまたあれはなほうとまれぬおもふものから (147)
郭公汝が鳴く里のあまたあれば猶疎まれぬ思ふものから
「郭公よ、お前が鳴く里が沢山あるので、やはり嫌だと思ってしまう、お前のことを思っているものの。」
「郭公」で切れる。「郭公」に呼びかけている。「疎まれぬ」でも切れる。「れ」は自発の助動詞。「自然にそうなる」の意。「ぬ」は完了の助動詞。「思ふものから」は、倒置になっている。
「鳴く里のあまたあれば」は、私の所だけで鳴いてほしいという思い。「猶疎まれぬ思ふものから」は、お前をかわいく思うものの、それでもやはり親しめないという思い。郭公の鳴き声を独占したいのである。
作者は、郭公への思いが浮気性の男(女)に対する思いに似ていることに気が付いた。かわいいと思うけれど、独占できないために親しみが今一つ持てない男(女)、それが郭公なのだと。
郭公に対する言うに言われぬ思い。それを男(女)を独占できずにいらだった恋の経験と結びつけたところにこの歌のオリジナリティがある。
読み手にもこうした恋の経験があるはずだから、この思いは伝わるだろう。知らないものを知っているものでたとえる。たとえの基本である。
コメント
詠み手が女性で訪れる男を郭公に喩えたのだと思いました。通う先が彼方此方にあるのは分かっている、でも、囀って欲しいのは愛を語って欲しいのは私のところだけにして欲しい。思いが強ければこそ。と言ったところでしょうか。あぁ、なるほどと共感する人が多そうです。
普通ならそうなるのですが、この歌はそのたとえを逆転させています。そこに独創性があります。
郭公は訪れるのですから、男のたとえでしょうが、女もあり得ると思います。
例え方がうまいなあと納得させられました。
郭公は男❓女❓どっちも考えられますね。
どっちでしょうね。
尋ねてくるのですから、普通は男でしょう。でも、女としても、面白いと思います。
女だって、男に負けないほど独占欲が強いですからね。