題しらす よみ人しらす
なつやまになくほとときすこころあらはものおもふわれにこゑなきかせそ
夏山に鳴く郭公心あらば物思ふ我に声な聞かせそ
「夏山に鳴く郭公よ。お前に心があるならば、物思いしている我に声を聞かせないでおくれ。」
「鳴く郭公」は「郭公」に呼びかけている。ここで切れる。「な」は副詞で終助詞「そ」と呼応して、禁止を表す。
作者は、今物思いしているので、郭公に声を聞かせるなと言う。その理由は、書かれていないけれど、容易に想像が付く。郭公の声を聞くと、物思いに一層誘われるからだ。
ここからわかることは、郭公の鳴き声の特性である。それは、悲しみを一層募らせる声なのだ。その鳴き声は高く鋭い。哀切な叫び声にも聞こえる。けたたましいと言えばけたたましい。物思いに耽る神経を逆なですることもあろう。いずれにしても、物思いしている時には、聞きたくない声なのである。
つまり、この歌は郭公の鳴き声がどういうものかを表している。郭公の鳴き声そのものを言葉で再現することはできない。そこで、代わりにその結果(効果)の方を表したのである。これをレトリックの用語で、転喩または側写と言う。『古今和歌集』は、レトリックの宝庫である。
コメント
その声を聞くと物思いの原因となる場面へ心が連れ戻されてしまうのですね。
この歌を聞いた人は皆の聞き知った郭公の声が頭の中に再生されて、それぞれの思いへと誘われてしまう。思いの行き着く先は全く違うけれど、呼び戻されるこの感覚に誰もが共感出来るのではないでしょうか。
聞かせないで欲しい、と言いつつ、物思いに浸りたいのだろうと思いました。
この歌は、夏の部にあります。ならば、夏の季節感を表した歌として読むべきでしょう。すると、この歌の主役は郭公になります。人事は脇役になります。
読み手の経験に訴えて、郭公の鳴き声を表したのでしょう。読み手には思い当たる経験があるので、その鳴き声を再現できます。
その場合、郭公の鳴き声を聞いて、ますます物思いに耽りたいというやけっぱちな思いもありそうですね。
なるほど、物思いに耽るには適さない季節、思いに浸りたいのに「ホキョキョキョ、、」と聞こえてくる。静まった、と思う間も無くまた、、「煩わしい夏」の訪れを否応なしに思い知らされるという訳ですね。
そういう思い、それは嘘偽りのない実感でなければなりません。そして、それをいかに和歌にふさわしい優雅さで表すか、そこに和歌としての表現の工夫があります。
貫之は、この歌に合格点を与えたわけです。