第百三十一段  身の程を知れ

 貧しき者は財をもて礼とし、老いたる者は力をもて礼とす。おのれが分を知りて、及ばざる時は速やかにやむを智といふべし。 許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、おのれが誤りなり。貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を招く。

「貧しい者は財貨を贈ることを礼儀とし、年老いた者は力を貸すことを礼儀とする。(つまり、自分に無いものを重んじる。しかし、)自分の身の程を知って、自分の力が及ばない時は直ちに止めるのを知性があると言うべきだ。(だから)直ちに止めることを許さないとしたら、他者の誤りである。身の程を知らずに無理に励むのは自分の誤りである。貧乏でそれをわきまえないと盗むようになり、力が衰へてそれをわきまえないと病気になる。」

人にはそれぞれ身の程がある。それをわきまえることが肝要である。それを超えて、人に押し付けたり、自分でも無理をしたりしてはいけない。人は無い物ねだりの傾向がある。自分に足りないものを求めがちである。しかし、それは誤りである。その結果、様々な弊害が生まれるからだ。
兼好は、このように主張する。一応もっともな考えである。実際「年寄りの冷や水」と言いたくなるような事象は多々ある。それにより本人ばかりでなく、周りも迷惑することになる。したがって、身の程をわきまえることは必要である。とは言え、身の程はそれほど明らかではない。なるほど、財力や年齢などははっきりしているけれど、外に表れない才能などもある。たとえば、ピアノの才能など、幼い時に無理をしないと見えてこないものもある。その見極め方が難しい。また、どこまでが無理と言えるのかの判断も難しい。一概に何とも言えない。ケースバイケースである。
これは、無為自然を重んじる老荘思想に沿った考えである。人為を重んじ過ぎる考えへの批判としては有効である。

コメント

  1. すいわ より:

    確かにそうだと思う一方で、あと一歩という向上から逃れる安住とも取れます。財力、年齢などの物理的な差は分かりやすいからこそ当事者より外野の視線が煩そうだけれど、当事者同士がお互いに個として成り立っていたらむしろ物理的要素を取り払い易いですよね。
    外から見えにくい才能などの「分」については確かに難しいです。これは本人が自覚出来ない所がある。ピアノの例が出されていましたが、習い事や学習、本人の意思を汲みつつ、目指す所をどこにするのか。自分で決められる時までアドバイスする人の力量によって伸ばすか矯めるか大きく道を分けそうです。そして決めるのは最終的に「本人」。
    百二十九段からここまで「自律」について考えさせられ続けております。

    • 山川 信一 より:

      これを読むと、私の考えの批判のように思えてきます。無理を承知で限界に挑戦するという生き方をしてきましたから。もちろん、その生き方の欠点も承知しています。それによる弊害も経験してきました。しかし、それには達成感という満足もありました。だから、兼好の考えは万人に通じるとは思えません。ただ、年を取った今の自分には有効な考えだとも思えます。

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