雅房の大納言は、才賢く、よき人にて、大将にもなさばやとおぼしける比、院の近習なる人、「ただ今、あさましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、憎くおぼしめして、日頃の御気色もたがひ、昇進もし給はざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足はあとなき事なり。虚言は不便なれども、かかる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心は、いと尊き事なり。
おほかた、生けるものを殺し、傷め、闘はしめて遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴い、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、ひとへに愚痴なるゆゑに、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず。
「雅房の大納言は、学問に優れていて、人格も素晴らしくて、大将にでも取り立てたいとお思いになった頃、上皇の傍に仕える人が、『ただ今、あきれ果てたことを見てしまいました。』と申し上げなさったので、『何事か。』とお尋ねあそばしたところ、『雅房卿が鷹に餌をやろうとして、生きている犬の足を斬りましたのを中垣の穴から見てしまいました。』と申し上げなさったところ、上皇は親しめず、憎らしくお思いになって、日頃の御覚えも変わって、昇進させることもなさらなかった。それほどの人が鷹を持っていらっしゃったのは意外であるけれど、犬の足の話は事実無根である。嘘は気の毒であるけれど、このような話をお聞きになって、お憎みにあそばされた君の御心は、たいそう尊いことである。
一般に、生きているものを殺し、傷つけ、闘わせて戯れ楽しむなら、その人は獣が互いに傷つけ合うのと同類である。あらゆる鳥や獣は、小さき虫までも、よく注意してその有様を見ると、子を思ひ、親を慕い、夫婦を伴い、嫉み、怒り、欲深く、我が身を愛し、命を惜しんでいることは、ひたすら愚かなものであるから、人よりもまさって甚だしい。彼らに苦しみを与へ、命を奪うなら、そうしたことにどうして心が痛まないことがあろうか、ありはしない。すべて、一切の生き物を見て、慈悲の心を引き起こさないとしたら、その人は、人間ではない。」
雅房の大納言は、上皇の覚えがめでたかった。それを妬まれ、鷹の餌にするために生きた犬の脚を切ったとて讒言される。上皇はその話を信じ、雅房を疎んじるようになる。その結果、雅房の昇進もなくなる。ありがちな話である。しかし、ここで兼好が問題にしているのは、生き物に対する残虐な態度を憎む上皇の心である。その心を尊いと言う。鳥や獣は、人間以上に命を惜しんでいる。だから、それを見て憐れまないのは人間ではないからである。それゆえ、上皇に人間性を感じている。
話の展開に意外性がある。雅房の話は、雅房の残忍さ、あるいは、嘘の恐ろしさを言うためのものかと思わせて、その予想を裏切っていく。主題は、殺生を戒めること、すべての生き物の命を尊ぶことであった。しかし、それはあまりにまっとうな主張であるために、かえって心に届きにくい。そこで、こうした展開にしたのだろう。エピソードの使い方に工夫がある。
ただし、まっとうな主張ではあるけれど、その根拠には独自性がある。獣の方が人間より情が深く、命を惜しむと言う。この捉え方は仏教徒ならではのものだ。これをこそ、受け入れてほしいのだろう。
コメント
百二十一段でも動物を飼うことに否定的な論を展開しておりました。今回は動物を大切に思う上皇を称え、このエピソードを後ろ盾に無用な動物の飼育を批判、およそ人間は動物を飼うに値しない存在なのだと言いたいのですね。
確かにおぼえめでたき人への嫉妬から讒言するなど浅ましい限り、人の卑しさを見せつけられます。大納言は出来た人なのに鷹など飼うから付け入られて足元をすくわれるのだ、と。
私自身、たぶん動物は好きな方ですけれど、育てる手間は気にならないものの、死を受け止める覚悟が出来ないので飼えません。野良猫に挨拶したり(これも迷惑でしょうね)木々に遊ぶ鳥達をこっそり眺めて季節を感じ自然の一部に入れてもらうのが精一杯です。
なるほど、このエピソードは、二重の意味がありそうですね。上皇の心を讃えること、雅房の大納言は鷹を飼うべきではなかったことの二点です。考えられていますね。
動物を飼うことについては、同感です。私も昔生き物を飼っていたことがあります。しかし、その死はつらかった。もう飼うことはできません。