やよひのつこもりの日、花つみよりかへりける女ともを見てよめる みつね
ととむへきものとはなしにはかなくもちるはなことにたくふこころか (132)
留むべき物とはなしに儚くも散る花ごとにたぐふ心か
「三月の終わりの日、花摘みから帰って来た女たちを見て詠んだ 凡河内躬恒
留めることができるものではないのに、むなしく散る花ごとにたわいもなく惹かれる心だなあ。」
「留むべき」の「べき」は可能を表す。古文の可能は不可能の形で出て来る。何を「留むべき」かは、先送りされている。「なしに」の「に」は接続助詞で、逆接を表す。「儚くも」は「散る」だけでなく「たぐふ」にも掛かる。「か」は終助詞で詠嘆を表す。
時は三月の月末。花摘みから帰って来た女たちを見て、「散る花」を連想した。作者は今、花摘みから帰って来た女にたわいもなく惹かれている。しかし、惹かれるだけで、引き留めることもできない。それはいつに変わらぬ作者の心である。考えてみれば、作者の「散る花」への思いもそれと同じだった。春の間中、留めることもできないのに、「散る花ごとに」心惹かれてきた。しかし、それも今日が最後だ。今日で春が終わってしまう。
男にとって、春は女のようなものなのだ。惜春とは、失恋に対する思いに似ている。作者は、春から受ける疎外感をこうなぞらえた。
では、女にとっての春とは何なのだろう。花摘みをするのは、春を名残り惜しんでいるのだろうか。
コメント
手に手に花を持って楽しげに語らいながら乙女たちが通り過ぎてゆく。どの子もなんとも言えぬ可愛らしさ。でも詠み手はそれを少し離れた所から眺め見送る事しかしない。声を掛ける間も無く行ってしまう。声を掛けたところで立ち止まることもないだろう。花と同じでどれも美しいが花咲く時は短くて、時間を止めることは出来ない。こんな思いに駆られるのも今日で終わり、、割り切ろうとすればするほど思いは募る。なるほど春への思いと恋する心は似ています。厄介ですね。
女にとっての春、、、女自身が主役なのでしょう。花も霞も自分を演出する為の小道具。男ほどロマンチストではないと思います。
散る花への思いを女への恋になぞらえるのは、奇を衒ったたとえではなく、まさにその通りなのですね。この発見にこの歌の価値があります。作者は実に細やかに自分の心を捉えています。
男と女の心は、対称軸によって対照的になっているわけではないのかも知れませんね。それぞれが独立して存在している、そんな気もしてきます。