家にふちの花のさけりけるを人のたちとまりて見けるをよめる みつね
わかやとにさけるふちなみたちかへりすきかてにのみひとのみるらむ (120)
我が宿に咲ける藤波立ち帰り過ぎかてにのみ人の見るらむ
「我が家に藤の花が咲いているのを人が立ち止まって見ているのを詠んだ 凡河内躬恒
我が家に咲いている藤の花を引き返し、通り過ぎることができないばかりに人が見ているのだろう。」
「過ぎかてに」の「かてに」は「・・・することができず。・・・しかねる。」の意を表す。「かて」は動詞「かつ(・・・できる)」の未然形。「に」は助動詞「ず」の連用形。「のみ」は副助詞で限定・強調を表す。「らむ」は助動詞で現在推量を表す。
人が立ち止まって我が家の藤の花を見ている。あれは、我が家の藤の花があまりに見事なので、何度も引き返し、通り過ぎることができなくて見ているのだろうと推し量る。「のみ」は、人が見ている理由がそれだけ限定されるということを表している。単に立ち止まって見ているのではない、何度も何度も引き返し、通り過ぎることをしかねていると言うのだ。
ここで言いたいことは、我が家の藤の花が如何に見事かと言うことである。つまり、我が家の藤の花自慢である。
コメント
「藤波」、花房が人々を招くように風に揺られる様子が目に浮かびます。誰もが立ち止まらずにいられない、通り過ぎても風に流された香りにまた誘われて戻って見たくなる。そのままと言えばそのままだけれど、自慢したくなるほどの見事な咲き様、よく伝わってきます。余程嬉しいのですね。
なるほど、藤の花の見た目だけではなく、香りも感じられますね。香りについては、一言も書かれていないところが憎い。
この歌がここにあるのは、前の歌と比較させたかったからでしょう。まるで、躬恒が「遍照さん、欲張ってはダメですよ。見て貰えるだけで十分じゃないですか。」と言っているみたいです。貫之の編集の妙ですね。