しかよりかへりけるをうなともの花山にいりてふちの花のもとにたちよりてかへりけるに、よみておくりける 僧正遍昭
よそにみてかへらむひとにふちのはなはひまつはれよえたはをるとも (119)
余所に見て帰らむ人に藤の花這ひまつわれよ枝は折るとも
花山:花山寺。京都市山科区北花山にある元慶寺。遍昭が建立した。
「滋賀から帰って来た女たちが花山寺に入って藤の花のもとに立ち寄って帰ったので、詠んで贈った 僧正遍昭
お参りもせず遠くから見て帰ろうとする人に藤の花は這い伸びて絡みつけよ、よし枝は折れても。」
「余所に見て帰らむ人に」は、「這ひまつわれよ」に掛かる。「藤の花」にこう呼びかけている。「枝は折るとも」は、文法上は倒置になっている。意味上は、後から条件を付け加えている。
女たちは、花山寺まで来たのに、藤の花を見ただけで、こちらに何の挨拶もなく帰ってしまった。なるほど、藤の花は見応えがある。それに引き換え、私は魅力に欠けるのだろう。ならば、私に代わって藤の花の枝が這い纏わって引き留めてほしい。
女たちへの冗談めかした皮肉である。「せっかく来たのだから、花山寺にお参りして、私にもお顔を見せてくださいよ。」という思いである。
コメント
風に揺れる藤の花房に女達は心躍って盛り上がっていたのでしょうね。寺に来てせめてお詣りして行ってくれても良いのに、とこの歌を受け取った女達、どんな気持ちだったでしょう。
枝が折れようともあの方達に絡み付いて足止めせよとは、なかなかの粘着質。花の魅力ゆえに引き寄せられたのでしょけれど、お詣りもしないなんて、という事なのはわかりますが、花の魅力は台無しになっているような?
「をうな」=女、「おうな」=媼(老女)なのですか?
歌を受け取った女たちの思いまでは気が回らなかったようですね。こんな内容では気持ちがいいわけがありません。遍昭さんは、女心まではわかっていらっしゃらないようですね。
仮名序に「僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見ていたづらに心をうごかすがごとし。」とありますが、どこか真心が足りないのでしょう。
「をうな」=女、「おうな」=媼(老女)です。だから、ここは当然「をうな」でなければなりませんよね。
最初詠んだ時、なんて恐ろしい歌なのかしらと思いました。絡み付けなんて気持ち悪いです。
私はちょっと嫌な感じな歌ですね。
僧正遍昭には、女心がわかっていませんね。言わば、女心のまことをわかろうとしていません。だから、こんな歌になるのでしょう。
だから、貫之に「うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見ていたづらに心をうごかすがごとし。」と評されるのです。
遍昭が見ているのは、生身の女ではなく、絵に描いた女なのです。