《散る花に伴う心》

うつろへる花を見てよめる みつね

はなみれはこころさへにそうつりけるいろにはいてしひともこそしれ (104)

花見れば心さへにぞうつりける色には出でじ人もこそ知れ

「散っている桜の花を見て詠んだ  凡河内躬恒
散っている花を見ると、心までも散って他に移っていくことだなあ。その心を顔色には出すまい。人がその心を知るかもしれないから。」

この歌は、「うつりける」と「出でじ」の後で二度切れている。「さへに」は、「さへ」が副助詞で、「に」は間投助詞。「(・・・ばかりでなく)までも」という添加の意を表す。「ける」は、詠嘆の助動詞。係助詞「ぞ」の結びで連体形になっている。心が他に移ってしまったことに気づき、詠嘆したことを表す。「出でじ」の「じ」は打消意志の助動詞で、「・・・しまい」の意。「もこそ」は、「も」も「こそ」の係助詞で、悪い事態を予想して、あやぶんだり、心配したりする意を表す。「・・・するとたいへんだ」ということ。
散る花を見ていると、それに従って、私の心までも花から離れて行くのを感じる。それが顔色に出ないようにしよう。人に知られる恐れがあるから。こんな風に言う。
では、なぜ人に知られると困るのか。それは、自分の桜への愛のほどを知られるからだ。桜を盛りにしか愛せない浮ついた心の持ち主だと思われることを恐れるのだ。散る花は、こんな心配までも誘発する。ここにこの歌の発見がある。
また、「うつりにける」を恋人への心変わりと解して、それを花のせいにするという意味にもとれる。
では、この歌は誰に向かって詠んでいるのか。どうも特定の相手はいないようだ。思いを独白しているようだ。自分がこういう感情を発見したことを示すことで、読み手に共感を求めているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    花の盛りも過ぎてこれで今年の春もおしまいだなぁ、と心にひと段落付けられる自分に驚きを覚えたのですね。日毎その姿を変えて行く桜に一喜一憂してきたというのに、いざ散ってしまったとなったら桜への関心があっという間に離れる、そんな自分を周りに気づかれてしまう、と。でも、桜が特別なのですよね。訳もなく、こんなにも心かき乱される存在はなかなかありません。
    過ぎていってしまうと分かっていて恋焦がれてしまう、私たちは桜に永遠の片思いをしているのかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      桜と恋人は似ているかも知れませんね。桜への思いを通して、恋人への思いを知ったりもします。自然は私たちを映す鏡です。その中でも桜は特別に映りのいい鏡なのでしょう。

  2. らん より:

    ほんとですね。桜は恋人みたいです。
    散ってしまっても大好きです。
    薄情じゃないよってわかってほしいですね。

    • 山川 信一 より:

      散る花に伴って、自分の心が他に移ってしまいます。自分でも情けないなあと思います。けれど、人には薄情だと思われたくないのでしょうね。

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