第八十六段  「秀句」の真意

 惟継中納言(これつぐのちゅうなごん)は、風月(ふげつ)の才(ざえ)に富める人なり。一生精進にして、読経うちして、寺法師の円伊僧正と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺は無ければ、今よりは法師とこそ申さめ」と言はれけり。いみじき秀句なりけり。

風月の才:詩文を作る才能。
一生精進:出家しなくても仏道に励んでいる人物の生活態度。
寺法師:三井寺(園城寺)の僧。
文保三年三井寺焼かれし時:1319年、敵対関係にあった延暦寺の山法師によってなされた。
同宿:同じ寺に住み、同じ師に付いて共に学ぶこと。
坊主:寺の住職。円伊僧正のこと。
御坊:僧に対する敬称。
秀句:気の利いた言葉遣いの句。

「惟継中納言は、漢詩を作る才能の豊かな人である。在家で仏道修行に励み、ひたすら読経して、寺法師の円伊僧正と同じ寺に住み、同じ師に付いて学んだそうですが、文保三年三井寺が焼かれた時、寺の住職・円伊僧正に対して、「あなたのことを寺法師と申しましたけれど、寺が無いので、今からは法師と申し上げましょう。」とおっしゃったそうだ。すばらしい秀句である。」

惟継中納言は、教養豊かで、出家はしていないが、真面目に仏道修行に励む人物であった。寺法師の円伊僧正とは、かつて同じ寺に住み込んで同じ先生に付いて学んだ同窓生であった。それが、三井寺が延暦寺の僧徒によって焼き落とされた時に、寺の住職であった円伊僧正に向かって直接、「寺が無くなったので、これからはあなたは『寺法師』ではなく、ただの『法師』と呼ぶつもりだ。」と言ったのである。取りようによってはひどい話である。惟継中納言の真意が図りかねる。惟継中納言のような教養ある真面目な人物がなぜこんなことを言ったのだろう。しかし、兼好が「いみじき秀句」と言ったのは、その思いを評価してのことである。そこで、これを手掛かりにして次のように考えてみる。
惟継中納言は、寺法師と山法師の抗争に反対していた。仏道を信仰する者がしてはならない行為だと常々苦々しく思っていた。しかも、かつての学友である円伊僧正は、その一方の寺の住職なのだ。彼の立場からすれば、役割上住職としての務めを果たさねばならない。ところが、その三井寺が焼けてしまった。そこで、この機会を捉えて、「いい折です。この際、住職を辞めてただの法師に戻ってください。武力闘争など仏教徒のすることではありません。また共に仏道に励みましょう。」という思いを込めて、この秀句言ったのだ。兼好にはその真意が伝わり、「いみじき秀句」と評価したのである。

コメント

  1. すいわ より:

    なまじ「容れ物」があるせいで本来の目的を遂げられなくなる、「寺」が無くとも仏道を志すことは出来るのですよ、と言うのですね。一見、消失した寺の住職への嫌味にすら聞こえそうですが、失ったのではなく、無駄なものが削げ落ちた今、かつて一緒に学んだ仏道をまた、一から始めましょう、という激励。同窓の友であればこその温かな言葉なのですね。

    • 山川 信一 より:

      この段の文章は実に緻密に書かれています。惟継中納言の人物像が「秀句」に結びついています。読者にその真意を読み解かせる、まさに名文です。
      惟継中納言は漢詩を能くしたので、様々な秀句を作りだしたはず。しかし、これこそが何と言っても「秀句」であると言うのでしょう。

  2. すいわ より:

    このエピソードこそが「秀句」!恐れ入りました。

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