第八十四段  坊主らしからぬ僧都

 法顕三蔵の、天竺にわたりて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願い給ひけることを聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を、人の国にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情ありける三蔵かな」と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

法顕三蔵:中国東晋時代の高僧。『西遊記』のモデル玄奘三蔵とは別人。
見え給ひけれ:「見え」は、「見せる」の意。
僧都:僧官の一つ。「僧正」に次ぐ位。

「法顕三蔵がインドに渡って、故郷の扇を見ては悲しみ、病気の時には中国の食事をお求めになったことを聞いて、『それほどの人が無闇に気弱な様子を他人の国でお見せになったものだが・・・』とある人が言ったところ、弘融僧都が『優しく人間味のある三蔵だなあ。』と言っていたことこそ、坊主らしくもなく、奥ゆかしく感じられたが・・・。」

弘融僧都が法顕三蔵の人間味を認めている。兼好は、その坊主らしくない解釈をしたことに感心する。僧都は、僧としては位が高い。したがって、弘融僧都にしても出世欲があったはずだ。しかし、このような見方ができることを評価している。僧にも、法顕三蔵は元より弘融僧都のように人間味有る人もいるのだ。僧たるもの、世俗は超越しても人間味は失ってはいけないと言いたいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「僧」という存在が身近に感じられていないのでなんとも言えないのですが、勝手な「僧」像で言わせてもらえば、「仏の道と俗世を繋ぐ立場の人」。だから仏道に精進しつつ、俗世の人に寄り添える人としての感覚も持ち得ている必要がある。なので僧都の感覚は真っ当。とかく地位なりブランドに胡座をかく人がいたり、反対にそれらに対して周りの人間が過大な評価をしがちですが、所詮、人のなせる技などたかが知れている。無闇に有り難がるから、付け上がる人も出てくるのでしょうね。という私も「僧」を知りませんが。

    • 山川 信一 より:

      僧について言えば、「「仏の道と俗世を繋ぐ立場の人」。だから仏道に精進しつつ、俗世の人に寄り添える人としての感覚も持ち得ている必要がある。」に賛成です。その点、弘融僧都はそれに叶った人です。
      「坊主らしくもなく、奥ゆかしく感じられた」とあるのは、当時、弘融僧都のような僧が希で、ろくでもない法師ばかりだったのでしょう。法師たちに向かって、見習いなさいと言いたくもなります。

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