第六十九段    豆と豆殻の声

 書写の上人は、法華読誦の功つもりて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「うとからぬおのれらしも、恨めしく我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻の、はらはらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へがたけれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。

書写の上人:播磨国の書写山円教寺を開いた性空上人。
六根:六塵(色・声・香・味・触・法)を知覚して、人間に迷いを生じさせる根源。眼・耳・鼻・舌・身とその総合的作用である意。

「書写の上人は、法華経を読誦した功徳が積もって、六根が清浄あることにふさわしい人である。旅の仮の宿に入っていらっしゃた時に、豆の殻を焚いて豆を煮ている音が、つぶつぶと鳴るのをお聞きになったところ、その豆は『疎遠でないお前たちがよりによって我を煮て、辛い目に遭わせることだなあ。』と言った。焚かれている豆殻がパラパラと鳴る音は、『このことは我が心からすることだろうか。そうではない。焼かれるのはどんなにか堪え難いけれども、力の及ばないことなのだ。どうかそんなに恨みなさいますな。』と聞こえた。」

偉人の奇譚である。書写の上人は、長年の功徳により六根が清浄になり、豆と豆殻の声が聞こえる。豆と豆殻は、世の理不尽さを嘆いていると言う。さて、兼好はこの話で何が言いたいのだろう。六根が清浄になると、このような超能力が身に付き、どんなものからでも本音を聞き取ることができようになると言いたいのだろうか。しかし、兼好自身が本気でこれを信じているとは到底思えない。それなのに、読み手には信じることを促している。自分たちの理解を超えた存在を信じさせたいのだろう。この信じるという態度が権威主義には都合がいいからだろう。これも信心の勧めである。

コメント

  1. すいわ より:

    まず、こんなに立派な人がいる、それだけの高徳を積んだから我ら凡人には持ち得ない能力をお持ちだ。だから信心が肝要だ、、前段に続き私には滑稽な話にしか聞こえません。「立派だ」と言いつつ、程々ってものがある、と暗に言っているような気もします。いちいち煮炊きの度に豆だの何だのの嘆きが聞こえて来るようでは立ち行きません。ましてそれらを食すとなると、、「詩人の目」としてのエピソードと見れば面白いですけれど、一般人がそれを額面通りに受け取って、ならば豆を煮まい、となったら馬鹿げている。さあ、これを読んであなたはどう行動する?と試されているのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      この話も誰に読ませたいのか、考えてみる必要がありそうです。やはり、仏道修行を怠り、飲む打つ買うなどだらけきった生活をしている法師どもに読ませたいのでしょう。
      「自分との違いを思い知りなさい。仏道修行は信心から始まるのですぞ。」と説教を垂れているのでしょう。とても、一般論としては成り立ちません。

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