山のさくらを見てよめる 貫之
はるかすみなにかくすらむさくらはなちるまをたにもみるへきものを (79)
春霞なに隠すらむ桜花散る間をだにも見るべきものを
なに:(歌語)なぜ。どうして。
らむ:現在推量の助動詞。眼前の事実の起きる理由を推量している。
「山の桜を見て詠んだ 貫之
春霞はなんであんなに桜の花を隠しているのだろう。桜の花は散る間さえもその姿を見るべきものなのに。」
桜花が上句に対しては目的語として、下句に対しては主語として働いている。
里の桜が散ってしまったので、山の桜を見に来たのだろう。ところが、残念なことに、どうやら山の桜も散り始めているらしい。春霞に覆われているために桜の散る様子がよく見えない。桜が散るのは悲しく、惜しく、寂しく、残念なことである。だから、せめて散る姿を味わいたいと思う。散る姿も含めて桜の美しさなのだ。ところが、春霞のベールで覆われてしまっているために、何とも物足りなりない思いに駆られる。ただただその姿を想像するしかないのだ。しかし、それはそれで美しいではないか。そのことに気が付く。この歌は、その、心で感じる落花の美しさを表している。
コメント
最後の花びらの散るところまで見届けたい、そんな気持ちにさせる花はなかなかありませんね。なのに春霞がその姿を隠してしまう。隠されるから尚のこと見たい。行く春への名残は尽きません。
「桜は衰える姿を見られたくない、だから霞は隠してやっているのだ」「いやいや、桜は散る時までも美しいもの、たとえ見えずとも思い浮かべるだけで心が桜色で埋め尽くされていく」
花の盛りを過ぎた御簾越しの人、「伊勢物語」の第七十六段をふと思い出しました。
「桜は衰える姿を見られたくない、だから霞は隠してやっているのだ」という意見はありますね。だから、それを見越しての「(見る)べき」なのかも知れません。
この歌は、散る桜への様々な思いを見越しての提案なのでしょう。『伊勢物語』の再会に連想が及びましたか。味わい深い場面でしたね。
貫之の心にも、編集しながら、次の創作のための発想が生まれていたことでしょう。