大事を思ひたたん人は、避りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし、この事はてて」、「同じくはかの事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なくしたためまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、ほどあらじ。もの騒がしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとどかさなりて、事の尽くるかぎりもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。
こそあれ:「こそかくあれ」の意。このようにあったのだ。
もの騒がし:せっかちだ。慌ただしい。
「一大事を決行しようと思ったらその人は、避け難く、気に掛かることがあるにしてもその事の本来の目的を遂げないで、そのまま捨てるべきである。「ちょっと、このことが終わって」「同じことならあの事を始末しておいて」「ここれこれの事、人の嘲りがあるかもしれない、将来問題がないようにぬかりなく手配して」「数年来もこうだったのだから問題無い、その事を待ったとしても、時間は掛かるまい。慌てててバタバタしないように」などと思うとしたら、その時には、避けられない事ばかりがますます重なって、事が尽きる終わりもなく、決行する日もあるはずがない。大体、人を見ると、少しものをわきまえているほどの人は、皆この予定で一生は過ぎるようだ。
近い火事などで逃げる人は、「少し待て」と言うか。自分の身を助けようとすれば、恥をも顧みないで、財産も捨てて逃げ去るものだ。命は人を待つものか。死のやってくることは、水や火が攻めるよりも速く、逃れがたいものなのに、その時、年老いた親、幼い子、主君の恩、人の情けなど、捨て難いと思って捨てないだろうか。捨てるではないか。」
ここで言う大事とは、直接的は「仏道に専心すること」である。しかし、兼好はそう限定していない。万事に通じると言いたいのだろう。
大事を先延ばしにする人の心理が具体的で的確に表現されている。兼好が現実に即して語っていることがわかる。そのため、説得力がある。また、火事の例を出している。なるほど、火事や地震や津波などからは、何を捨てても逃げるしかない。まして、命には限りがある。いっそう人を待ってくれない。命には限りがある。したがって、自分にとっての大事が何かを見極めたなら、すべてをなげうって専心すべし。でないと、何も始まらず、その前に命が尽きると言う。身につまされる言葉である。
ただし、人生を大事をなすためのものと考えるかどうかは、人によりけりである。そうは考えず、大事を思い立たない人はこの限りではない。そういう人生があってもいい。
コメント
その一歩を踏み出せない事、あります。でも、この段の兼好の考え、共感できます。大きな事であれば二の足を踏むこともあるけれど、行動の主体は自分自身なのだから。大事でなくても自ら決定し行動すると言うのが現代人は苦手なように思います。あれがしたい、これを習いたい、どこどこへ行きたい、、と言うので、それならと具体的な話を向けると「でも」とそれらの出来ない言い訳をされる事、ままあります。そうした事に意識があるというスタイルを示したいだけであったり、自分で動くことなく誰かが手引きしてくれるのを待っているのだと分かって、ああ、そうなのね、と話を引っ込める事を覚えました。
大事なのにそれが大きい事と思わないでなさっている方もいますね。お陰様で私はこの二年半、国語を学ばせて頂いております。有り難く、有り難く。
おっしゃるとおり現代人は、大事という発想に乏しいのかも知れませんね。不満は言うけれど、行動には移さないこともあります。人生は大事をなすべきものと言い切ることもできませんが、せっかく命を得たのですから、手応えのある生き方ををしたいものです。兼好の言葉をかみしめる必要は有りそうです。
ただし、大事を成し遂げるためにすべてを犠牲にするという考えそのものは既に常識になっているのでは無いでしょうか?兼好の影響でしょうか?だとしたら、兼好恐るべし。したがって、人は、志より夢(=大事)を語りたがります。