仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちより詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
かちより:徒歩で。「より」は手段を表す格助詞。
かたへの人:傍らの人。仲間。
思ひつる:「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形。済んだことを表す。この時点で心苦しく思うことが済んでいることを示す。
あらまほし:そのようであることが望ましい。ありたい。
「仁和寺に身を寄せる坊主が、年を取るまで、石清水八幡宮を拝まなかったので、心苦しく思われて、ある時思い立って、ただ一人歩きで参詣した。極楽寺・高良社などを拝んで、これだけだと思い込んで帰ってしまった。それで、仲間に向かって、『長年心に引っかかっていたことを、やっと果たしました。話に聞いていた以上に、尊くいらっしゃいました。それにしても、参詣に来ている人が皆山に登ったのは、何事があったのだろうか。知りたかったけれど、神に参拝するのが本来の目的なのだと思って、山までは見ない。』と言った。少しのことにも、指導者はありたいものである。」
これは、仁和寺に身を寄せる坊主の失敗談である。
この坊主、年を取るまで有名な石清水八幡宮に参詣したことがないことに引け目に感じていた。そこで、ある時、急に参詣を決意する。つまり、無計画に。しかも、引け目があったのか、誰にも相談せず、一人で出かけてしまった。それも徒歩で。徒歩で行ったのは、自分の脚で苦労して行った方が御利益があると考えたからだろう。しかし、これが裏目に出る。この時点でも、誰にも接触しなかったからである。接触していれば、石清水八幡宮がどういう所かについて情報が得られた可能性がある。
本社のある山の麓の極楽寺・高良社を拝んで、これが石清水八幡宮のすべてだと思い込んで帰ってしまう。しかし、それでようやく引け目から解放されたのだろう、やや得意げに、宿年の思いが叶ったとその経験を仲間に話す。更にその時気になったこと、参詣したものが一人残らず山に登るのを疑問に思ったことまで話す。ただし、自らの信仰心・自制心を誇示するかのように、自分は神様に参拝するのが目的だったので、余計なことは考えなかったと付け加えることは忘れない。プライドのなせる業であるが、恥の上塗りでもある。
兼好は、この文章も起承転結の形式にしたがって書いている。事実を坦々と書くが、石清水八幡宮の本社が山の上にあることには触れない。まとめ方が意地悪なぐらいに決まり、この坊主の愚かしさが強調される。
単独行動には危険な落とし穴がある。指導者は、このような些細なことにも必要なのだ。まして、学問などの道には欠かせない。この教訓は他にも通じる。この話は、何とも効果的な具体例になっている。この坊主の心理までリアルに想像される。さすがと言うしかない。
コメント
こういうことって、私の生活の中にもよくあります。
「失敗したねー、聞いてくれれば教えてあげたのに」
「あー、聞いてから行けばよかった」とか。
このお坊さん、もう一度、石清水八幡宮に行かないといけませんね。
リベンジしないと。
聞けないのは、見栄が先行してしまうからでしょう。とかく人は格好つけたがります。
この坊主は、もう行かないでしょう。なぜなら、引け目を解消するために行ったのですから。
石清水八幡宮にお参りすること自体はそれほど意味を持っていません。
私だけが行ったことがない、それが周りに知られるのは嫌だ、こっそり行って既成事実を作ってしまえばこっちのもの。したり顔で参詣した者の列に入れた、と自慢。さも知ったような調子で鼻高々に自分は物見遊山で行ったのではない、お参りついでに山登りする奴の気がしれない、と。薄っぺらな知識がかえって無知を晒してしまう。「先達はあらまほしきことなり」、謙虚な気持ちで教えを乞いなさい、と言いたいのでしょうね。
このエピソードが優れているのは、いかにもありそうなことだからです。自分でも同じことをしているような気さえしてくるところです。
兼好法師は、人間をよく観察していますね。私も同じようなことをしてきた気がします。また、これからだって、しでかしそうな気になります。
ただ、謙虚な気持ちで教えを請いたいとは思うのですが、はったりだけの権威主義の教師も多いのです。なかなか難しい。まずは独学です。