第四十七段  老尼の希なる心

 或人、清水へまゐりけるに、老いたる尼の、行きつれたりけるが、道すがら「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、答もせず、なほ言ひやまざりけるを、度々問はれて、うち腹たちて、「やや、鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡山に稚児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。有り難き志なりけんかし。

老いたる尼の:「の」は同格。で。「養ひ君の」の「の」も同じ。
稚児:学問や行儀作法見習いのため、寺院にあずけられた少年。
もや:「・・・かもしれない。」という気持ちを添える語。
かし:柔らかく持ちかける気持ちを添える。

「ある人が清水寺にお参りに行った時に、年老いた尼で道連れになっていたのが、道中『くさめくさめ。』と言い続けて行ったので、『尼さん、何事をそのようにおっしゃるのか。』と問い掛けたけれども、返事もせず、なおも言い止めなかったが、度々問われて、腹を立てて『やれまあ、くしゃみをした時、こうおまじないをしないと死んでしまうのだ申すので、私が乳母になってお育て申し上げた若君で、比叡山で稚児でいらっしゃるお方が、たった今、くしゃみをなさるかもしれないと思うので、このようにも申すのだよ。』と言った。世にも珍しいこころであったのだろうね。」

「老婆心」という言葉もあるが、老尼の稚児を思う気持ちを滅多に無いものと言う。実の母親でもここまでは心配しまい。それを尊ぶ思いが表れている。
表れた言葉や態度は、隠れた心や事情とは違うことがある。前段では、「強盗の法印」というあだ名にもそれなりの事情があることを示唆した。それに対して、この段では老尼の不可思議な言葉にも、このように希なる心が籠もっていたと言う。何事も、表面的に判断してはいけないと言いたいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    一見、奇異に見える老尼の行動、目の前にはいない若君が風邪をこじらせることのないようにとの願いから来るものだったのですね。くしゃみなんていつするか分からないのに、分からないからこそ常に唱え続ける。若君の為ならなりふり構わない。老尼の情は身内以上。我が子を手駒にしたり、アクセサリーのように扱ったりする親も山程いますから、一心に若君の事を心に掛かる老尼の姿を書いておきたかったのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      感激したこと、感動したこと、心に残ることは、自分の胸だけにしまっておくのは惜しいもの。人と共有したくなるのは自然の人情ですね。これを書く兼好の気持ちはわかります。
      昨今の親は老尼の心を見習ってほしいものですね。アクセサリーだけでなく、ステージママ・スポーツママもいます。いずれも、子どもを自分の欲望実現のための道具にします。

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