家にありける梅花のちりけるをよめる つらゆき
くるとあくとめかれぬものをうめのはないつのひとまにうつろひぬらむ
暮ると明くと目離れぬものを梅花いつの人間に移ろひぬらむ (45)
「家にあった梅の花が散ったのを詠んだ 紀貫之
日が暮れるといっては見、夜が明けるといっては見て、いつも目が離れないのに、梅の花は、いつの人の見ていない間に散ってしまったのだろうか。」
第一句が字余りになっている。しかし、「くると」と「あくと」が対句になっていて、滑らかに読み下すことができる。しかも、全体を通して調べのよさが感じられる歌である。
梅の花は、どんなに注意して見ていても、散る時期が来れば散る。しかし、見ている方としては、こちらの思いがあればそうはならないと思いたい。散らせてなるものかと思うほど、梅の花に強い愛着があるのだ。しかし、そうはいかない。その残念な思いを詠んだ。
しかし、梅の花に限らず愛する対象は、皆こうしていつの間にか移ろっていくのかも知れない。梅の花を通してその真理を詠んだのかもしれない。
「うつろひぬらむ」は、「うつろ+ひ+ぬ+らむ」で、「ひ」は継続、「ぬ」は完了、「らむ」は現在推量を表す。梅の花が散るのを目のあたりにしていることを表している。
コメント
心惹かれるものにはついつい目がいくもの、朝な夕なに眺めては心慰められる。いつまでもこのままでという願いも虚しく花は散ってしまう。
散るところは見ていますよね。散ってしまう受け入れ難い事実を「いつのひとまに」とする事で少し和らげているように思えます。歌の中に「散る」という言葉を入れずに散って行く様子を思い描かせます。
「いつのひとまにうつろひぬらむ」とあるので、散る瞬間は見ていないのではないでしょうか。
これは、「今、いつの間に散ってしまった状態にあるのだろうか?」の意味になりますから。