題しらす よみ人しらす
みやまにはまつのゆきたにきえなくにみやこはのへのわかなつみけり (19)
み山には松の雪だに消えなくに都は野辺の若菜摘みけり
み山:「み」は接頭辞。歌語では「山」をこう言う。
だに:さえ。最も消えやすい雪でさえ。
「山にあっては消えやすいはずの松の雪さえ消えないのに、都では野原の若菜摘んだことだなあ。」
この歌は、都の若菜摘みを詠んでいる。問題は作者がどこにいるかである。十八番の歌は、作者は、京の都にいて、古都奈良、春日野の飛火野を思い描いていると解釈するのが自然だろう。それに対して、この歌は、作者が京の山間にいることを示している。それは、松の雪が消えていないとはっきり言っていることからわかる。遠くから眺めて判断したのでは「松の雪」とまではわからないからだ。その上で、都の野辺では、若菜摘みが行われることを噂に聞き、それを確信する。助動詞「けり」がそのことを示している。「けり」は、実際には経験していないことが事実であると確信する時に使うからである。
飛火野だけでなく、都でも若菜が摘めるようになったことに感動しているのである。季節はまた一歩進むのである。
コメント
“み”は接頭辞なのですね。“深山”かと思いました。
常緑の松さえも山にあっては雪に覆われてまだ冬から解放されないのに都の野辺では若菜をもう摘むとはねぇ、、春の訪れの噂を聞きつけての喜び、なのですね。何故だか惟喬親王を思い浮かべてしまったせいで春の歌なのに山と都の温度差に寂しさを感じてしまいました。
「みやま」の「み」は、美称を表します。ただ、これを深山と表記するところから、奥深い山という意味も生じたようです。たとえば、「とやま(戸山)」(人里近い低い山)に対して使われます。
「深山には霰降るらし戸山なるまさ木のかづら色付きにけり」(古今・神遊歌) さて、この歌は、微妙なところですね。私は、「山」が「野辺」と対照されているのなら、これでいいかと解釈しました。
でも、惟喬親王をイメージすれば、「深山」の方がいいかも知れませんね。ただ、感動が「摘みけり」にあるので、春の訪れの喜びを詠んだ歌でしょう。
「戸山」もなるほど、そうした意味づけがあるのですね。
この歌を詠んだ人は都の生活を知っている人ですよね。「よみ人しらす」なのに、都での若菜摘みを思い浮かべて春の訪れに感動する親王を想像してしまって、歌を詠んだ人のいる、まだ雪の残る山と若菜の摘める暖かさのある都の差に、歌の外側の完全に他者目線で歌を見てしまいました。
歌に限らず、まずは表現に即して解することが大事ですが、それはそれとして、自由に想像を解き放ち、飛躍することもよいことです。
それでこそ、読む楽しみがあるというものです。『伊勢物語』へと自由に行き来できる想像力は素晴らしいです。